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深層ドキュメント 「女たちの21世紀」

昭和51年度英米語学科卒、木村奈保子さんの東京中日スポーツにレギュラー掲載された記事からの紹介です。

【目次】
第1編 オトコよりも男性らしい
第2編 “駆け込み寺”になった木村
第3編 強い女を嫌う度量の狭い男
第4編 小学校1年生でガキ大将
第5編 「高一時代」の表紙モデルに
第6編 親に内緒で大阪の音楽教室に
第7編 米国一般家庭でホームステイ
第8編 「奈保子はまったく米国人だ」
第9編 はみ出しアナウンサー
第10編 国際ビジネスマンと渡り合う
第11編 初の映画紹介番組の解説
第12編 小森のおばちゃまの推理力
第13編 淀川長治に礼をいわれる
第14編 番組できない時は嫁に行け
第15編 自作自演の木村流制作スタイル
第16編 女の生き方、男のやり方がテーマ
第17編 ゴールデンタイム初出演
第18編 最年少映画解説者の誕生
第19編 新メディア ビデオマガジン
第20編 女が強いと後々すがすがしい
第21編 四文字言葉で黒人女性に反撃
第22編 レッドフォードを撮影
第23編 レッドフォードの完璧主義
第24編 バナナをつけた女たち
第25編 セラピーも得意ジャンル
第26編 講演タイトル「男を叱る」
第27編 すべての落ちこぼれにエール




木村奈保子イラスト第1編 オトコよりも男性らしい

「よくそんなダイレクトな性格のまま、日本で生きていられるなあ」

テレビ東京プライムタイム放映の「木曜洋画劇場」で解説をつとめる映画評論家の木村奈保子を目の前にして、日本に長く在住している欧米人がよくいうセリフである。

彼らにとって、「変わった国ニッポン」で、まさに「女であって」自分を持って生き抜いている木村の生きざまは、珍しい。ただ海外の映画系やビジネスエリアで出会う欧米人からは、“ニューヨーク型キャリアウーマン”と呼ばれている。テレビ解説で見せるあの都会的な華やかなイメージは、もともと外国人が多かった国際都市・神戸生まれの土壌からきているらしい。

男性たちに媚を売る、いわゆる、女の武器を使うという芸当はもってない。信念を貫くために、男性の数倍もの努力を重ねる姿勢は、真の男女同権を目指すアメリカンマインドに根ざしている。

妥協を許さず、あくまでも堂々と男性と渡りあう木村の生き方は、いまこそ少しは理解の範疇に入るが、かつてはそうではなかった。「女なのに」「女のくせに」と思われることも多々あったことだろう。西部劇からスタートしたアメリカ映画のヒーロー像にこだわり、自分もそうなりたいと願ったところからきているという。

まわりの知り合いから「男性(オトコ)よりも男性らしい」とちゃかされるのは、嫌な気分ではないが、日本だからこそ言われるセリフであることも事実だという。

経済的にも精神的にも自立を目指した木村だからこそ、声を大にしていう。「いまの日本は、国際的に見て、男女の意識が非常に遅れている」

まず、多くの仕事場で、男性の視点がある。職場の女性をしてまず、かわいいかどうかがチェックされている。年齢や色気を中心に、「お酒を飲んでどうなるのか」「親切にすれば、惚れるかも」といった私的な好奇心からのがれられない男性は少なくない。しかも、日本の男性は、世界でもっともロマンチックではないといわれている。踊りができないなど、おしゃれなエスコートができない上に、女性を酒のサカナあつかいにする、欲したら拝みたおすか、権力を振りかざすなど、どんな手を使っても女性にモテたがるなど、自分たちの行動が、島国である日本でしか通用しないことがわかっていない。

木村はいう。
「ごく一部の洗練された頭の男性はちがいますけれどね。それは、年齢に関係なく、個人のもつセンスの問題でしょう」

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第2編 “駆け込み寺”になった木村

テレビ東京プライムタイム放映の「木曜洋画劇場」の解説者木村奈保子は、男性だけでなく、女性たちに対しても反省をうながす。

「日本の女性は、ひとりの男性から愛されることに精一杯。そんなことに執着したら、“女”というまだまだ弱い民族運動の競争には勝てない」

さまざまなところで、「女性が強くなった」という言葉を耳にする。だが、それは、まだまだ母親的な強さでしかない。自立した女の強さには、ほど遠い。

普通の人生を選んだ友人たちが、“駆け込み寺”のように木村をおとずれる。

「彼が私を裏切るなんて思いもしなかった」
たとえ結婚式のときに二人して神の前で誓っても、事情は変わる。一生ひとりを愛し続けることが難しい時代になった。

アメリカでは、同じ歴史を持ちながらも、その改善と対処がめざましく早い。それは、女性が自立するための、社会的配慮、仕組みが支援されると同時に、精神的な鍛え方を身につけているということでもある。

木村は、1980年代からアメリカ映画は、本格的に女性を真の強さに導くバイブルになっていった、という。木村は処女作「バナナをつけた女たち」で、女性映画の変革について書き、その後もヒロイン分析を続けている。
2000年代を迎えた現代ハリウッド映画に登場するヒロインたちに、かつての弱い貞淑な姿は微塵もない。経済的、精神的、そして、性的にも自立した。

「G・Iジェーン」で、デミ・ムーアが演じる海軍情報部の女性将校が叫ぶ。
「差別しないでよ!」
彼女は、脱落者60%以上といわれる、海軍エリートが集結した特訓プログラムに果敢に挑んでいく。訓練所に乗りこんでいった彼女には、彼女専用の部屋やシャワーが用意されている。それを見て、叫ぶのである。女性であろうと男性であろうと、国を守る軍隊では対等と、彼女は男たちと同じ部屋で寝起きする。しかも、男たちと一緒にシャワーを浴びるシーンは、衝撃的だ。
もちろん、映画の表現は“誇張”である。しかし、こうしたスピリットが時代をつくってゆく。この映画に限らず、いまやアメリカ映画では、“待つ女”や“尽くす女”は、どこにも登場せず、仕事のためプロポーズを断る、次の男性をすぐに見つけるなどして、自分の道を切り開いていく。

まだまだ日本では、血の汗を流して、男性たちに伍して仕事をしてこそ、はじめて女性は認められるというふうにはなっていない。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第3編 強い女を嫌う度量の狭い男

外国では、インテリジェンス(知性)、インディペンデント(自立)、センス・オブ・ユーモアをもつことが女性に必要な条件といわれる。欧米では、男たちからの求められ方もまったくちがうので、男女関係のグローバル・スタンダードは、ほど遠い。

アメリカよりも古いといわれるヨーロッパ系の男優たちでさえ、ハリウッド映画に出演すると、意識がかわってくる。フランスの俳優ジャン・レノはいった。「強い女が嫌いだなんて、そんだ度量の狭い男になりたくないね」

それもある意味で、男性的な視点ではあるが、時代の変化を受け入れ、理解していこうという姿勢が見えてくる。テレビ東京プライムタイム放映の「木曜映画劇場」の解説者木村奈保子は言う。「ビジネスの場であるかぎり、男性であろうと女性であろうと、生まれついた性は関係ない。その企業に利潤をもたらしたものこそ勝者となれる。女性も仕事が出来なければ厳しくされて、男性も、こびを売る女性を甘やかしてはならない」

男性でも女性でも、精神的にも経済的にも自立してさえいれば、人間関係、恋愛関係も変わってくる。燃え上がった愛情が、いつかは冷めるからもしれない。そのとき、どちらもからりと次の道に行くことができるよう、準備も必要だ。そのような男女関係、人間関係が当たり前になったとき、日本という国家もまた、本来の意味での自立した国家となる。木村は、強くそう考えている。

木村奈保子は、兵庫県神戸市に生まれた。父親は、生地の輸入を中心とした輸入卸業である。木村が、のちに局のアナウンサーを退き、通訳兼交渉アシスタントして、海外ビジネスを体験したころから、父と娘という以上に、師と弟子のような関係で、コミュニケートから経営者感覚を磨いていった。

しかし、父親は、商売のときには、ものすごいエネルギーで突っ走るが、いわゆる、エコノミックアニマルと呼ばれた日本人たちとはちがっていた。家族を大切にし、もっとも大事なのは子供ではなくて、妻だと考えていた。木村の父親の年代にありがちな、むっつりした怖いだけの父親像はなかった。何より、母親をもっとも大事に思っていた。

兄とふたり兄妹として育った木村ではあったが、見た目お嬢さまの雰囲気の中に、正義感に燃えるエネルギーがあった。ひ弱そうな同級生がいじめられると、その前に立ちはだって、「なんで、そんなことをするのか」といじめっ子を叱りとばした。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第4編 小学校1年生でガキ大将木村奈保子の母

現在テレビ東京プライムタイムの「木曜洋画劇場」で解説をしている木村奈保子は、小学校時代、忘れっぽい性格で、喧嘩した男子生徒に、翌日「おはようッ!」と声をかけ、逆に仲良くなってしまうことも多かった。一種のガキ大将だった。
こわい男子生徒であれ、先生であれ、何でもオープンに思ったままをしゃべるので、先生たちもおどろかされた。

「あれをしなさい」
「それをして、どうなるの?」
普通の小学校1年生なら何でも疑問を持つ前に、「はい」とその通りにするのが常識だった。

先生は「おたくのお嬢さんは、おかしいですね」といって、木村の母親を呼び出した。
が、父親が「家にいらしてください」と来てもらった。
木村は、家に来た担任の先生と父親がどんな話をしているのか、隣の部屋からそっと聞き耳を立てていた。

普通の父親であれば、「注意します」といった言葉があってもいいかもしれない。木村の父親はそうはいわなかった。
父親の声がはっきりと聞こえた。

「それは、先生のお考えがおかしいんですよ。」
そして続けた。
「みんながおなじ行動をしなければならないということはない。どうしても、ひとつの枠にはめこもうとされるのかもしれないが、いろんな子供がいるのだから、もっと理解したほうがいい。奈保子の性格は・・・・」
自分よりも年上の男の先生に子供の性格をしっかりと説明し、体験を踏まえた話をしているうちに、先生がそれを受け入れ、父親と先生はそれ以来すっかり仲良くなってしまった。
そのことがあってから、木村は、教室でものびのびと自分のしたいように出来るようになった。

ただ、それから、木村は、その日にあったことを父親に話すようにいわれていた。あまり調子に乗ったことを先生にしたことを口にすると、父親は烈火のごとく叱りつけた。
「それはやりすぎだ。先生に謝ってこい!」
父親は、決して木村を甘く育てていたわけではなかった。けじめだけは、きちんとつけさせた。

さらに、父親は、木村にしつこいほどいっていた。
「そんなに太っているのなら、食べるな」
木村は、野菜や魚が好きではなく、肉や油っぽいものしか口にしなかったこともあって、小学校高学年の頃から太りはじめた。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第5編 「高一時代」の表紙モデルに高校生の木村奈保子

テレビ東京プライムタイムの「木曜洋画劇場」で解説をしている木村奈保子は、小学校高学年のとき、父親にしつこいほどいわれていた。
「そんなに太っているのなら、食べるな」

ほっそりとした美人の母親が太った木村を産んだことを、童話になぞらえて「醜いアヒルの子」とからかわれたが、それほど醜いとも思ったこともなかった。どうしてそんなに父親にしかられるのか、わからなかった。

<お父さんは、私のことが嫌いなのかなぁ>
木村には、まだ、父親の親心はわからなかった。

木村がダイエットをしようと一大決心をしたのは、中学2年生のころである。通っていた私立の神戸山手学園女子中学校は、文字通り女子ばかりの学校である。同級生たちは、思春期をむかえ、見た目やおしゃれに気にするようになっていた。木村にも「太っているよね」と歯に衣を着せぬ言葉を放ってくる。

<うるさいなぁ>
ダイエットをはじめた。食べる物を制限する、それだけだが、たいていは途中で挫折する。一度思い込んだことは徹底しなければ気のすまない彼女である。1年も続けた。見違えるほど、やせてきれいになった。

このころ、木村は、旺文社で発行している「高一時代」の表紙モデルのオーディションに応募した。一次審査に通り、一次審査に通ったほかの女子39人とともに、顔写真が「高一時代」に載った。

全国の読者がその写真を見て投票し、投票数の多い女子が表紙モデルに決められる。なんと、木村は得票数が多く、一等に選ばれたのである。

さっそく東京からカメラマンがやってきて、グラビア撮影をすることになった。カメラマンは純粋でアーティスティックな雰囲気をただよわせるひとだった。木村は好感を抱いた。カメラマンのアイデア通り、秋をむかえた神戸の海辺で、はだしになって打ち寄せる波とたわむれるシーンもよろこんで受けた。

そのことをきっかけに、木村は旺文社で出しているカセットテープレコーダー、タイプライターといった製品の宣伝のモデルとしてつかわれることになり、母親にともなわれ、上京した。そのとき、「前髪は垂らすのではなく、上げてもらったほうがいいですね」と要求され、そのときの流行はくずせず、それだけはできない、とあくまでもゆずらなかった。女子高校では、セーラー服やコートを自分流にアレンジして着るなど、ファッションのこだわりが強く、ここで妥協しては下級生への示しがつかないと瞬時にして思ったのだ。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第6編 親に内緒で大阪の音楽教室に高校生の木村奈保子

現在テレビ東京のプライムタイムの「木曜洋画劇場」で解説をしている木村奈保子は、中学の頃から将来についてはいくつかの夢をもっていた。ただ憧れというより、実際に好きなことから考えて、歌手か、漫画家、あるいは、服飾デザイナーあたりがいいと考えていた。

中学校から短大までの一貫教育の中で見える未来は、短大卒業後、2年くらいの腰かけ社員を経て、きれいなお嫁さんになるというコース。みんなと同じ道を辿ることにはとても耐えきれない。そのうえ、自分が嫁に行く姿など想像するだけでゾッとした。

木村は、全国的な組織のマンガ研究会に入って、短編を描いたり、自分のデザインしたものを絵に描いて友だちにつくってもらった。

しかし、木村がもっとも興味が強かったのは音楽であった。はじめて買ってもらったカセットテープレコーダーに、黒人の歌のテープがあり、そのリズムと歌詞を何べんも聴きなおしてうたった。サッチモの「ママ・ルカ・ブーブー」だった。

そのころ、英会話学校に通うかたわら、毎週水曜日に学校が終わると、神戸から大阪の音楽学校に通った。ただし、親には内緒にしていた。

木村の得意科目は、英語だった。文法、会話、ヒヤリングと三つにわかれていて、二人の先生が教えてくれる。
二人とも定年を過ぎた初老の先生だった。一人は「ハイ」ではなく「アイ」というので、“アイちゃん”と木村が名づけた金沢先生。もう一人は、淀川長治の物真似で洋画劇場のセリフをしゃべる伊藤先生。二人とも愛嬌とユーモアあふれるかわいいおじいちゃんキャラクターで、木村のお気に入りだった。

いわれた宿題はきちんとこなし、懸命に勉強した。保健体育など、自分に必要でないと思っている授業では、平気で英語の勉強をしていた。英語の成績だけは、つねに学年でトップだった。

木村は“アイちゃん”が紹介してくれたペンフレンドと、その後大学に入学するまで文通をしていた。相手はオーストラリアに住んでいる、同じ年の男の子。一回の手紙は何十枚におよぶのがふつうで、日記風に自分を表現するのが好きだった。

同じく“アイちゃん”のアレンジで、オーストラリアから留学生がやってきた。
身長が大きい、ぼーっとした女の子だった。

木村はあいさつするその留学生に、英語で言った。
「ここに座る?」
こうした勉強をこえた先生のあり方は、木村の将来に影響を与えていくのである。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第7編 米国一般家庭でホームステイ木村奈保子

現在テレビ東京プライムタイムの「木曜洋画劇場」で解説をしている木村奈保子は、高校の三年生になったとき、両親にいった。
「英語の勉強ができる四年制の大学に行きたい」

両親は反対した。
「短大でいいじゃないか」
だが、一度言い出したら、梃子でも木村を動かすことができないのを知っている。
しばらくして、あきらめた。

木村は、京都外国語大学英米語学科に入学した。
男女共学に対する特別な意識は、何もなかった。しかも、ありきたりな恋愛よりも自分が将来なにになるかのほうが大きな課題だった。
木村のほかに三人の女子学生と四人のグループを組んで、映画を見たり、アルバイトの稼ぎ合戦をしたりした。テレビ局のマスコットガール、家庭教師など、アルバイトの稼ぎ競争では、クラスでもナンバーワンの働き者だった。

神戸の自宅から通っていた木村は、同じ大学の四年制として少林寺拳法部にいた兄が、ときどき遅れたついでにオープンカーで一緒に学校に乗りつけてくれる。
プレタポルテのスーツに、ハイヒール、ときには、ウィッグまでつけて学園内を闊歩。
いかにも、女子校上がりの華やかさで、男性の人気投票で二位となった。一位でない理由は、明るすぎる、スキがない、ということだった。いかにも日本人の男性らしい考え方だと思った。

三年になったとき、ある英語の先生がいった。
「アメリカに行きましょう。日本の芸能文化を武器に踊ったり、歌ったりして、日本人のいいところを見せましょうよ」
その先生は、ちょっと型破りで、生徒の中の空いた机の上に座って授業を進める。それも、たいてい、授業の本筋から外れて、アメリカの土地はでっかいとかいう話がはじまってしまう。

木村は、よく見るアメリカ映画に登場する、熱血先生のような雰囲気があるその先生が好きだった。
その先生は、アメリカのイリノイ州の関係者と交流を深め、ライオンズクラブ、ロータリークラブ、ダウンタウンのステージなどで、日本の童謡や民謡、日本舞踊を紹介していた。

木村は、好きな先生の企画であるので、すぐに参加することに決めた。
参加者は、それぞれひとりずつが一般家庭でホームステイすることになった。
木村が寝泊まりすることになったのは、十二歳と六歳の兄弟がいる四人家族の家であった・・・。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第8編 「奈保子はまったく米国人だ」若き頃の木村奈保子

現在テレビ東京プライムタイムの「木曜洋画劇場」で解説をしている木村奈保子は、京都外国語大学英米語学科三年生のとき、日米文化交流のイベントに参加した。

木村がホームステイしたのは、十二歳と六歳の兄弟がいる四人家族の家であった。
英語にはそこそこの自信がある木村だったが、その家族がしゃべる英語には頭を悩ました。訛りがきつく、聞きにくいのである。そのうえ、機関銃のようにまくしたててくる。

木村は、初日は、ちょっと焦った。
だが、二日目には、決意した。顔を合わせて、ふたたび早口でまくしたてられたとき、怒鳴った。

「いい加減にしてよ!わたしの知らない単語を使わないで!」
一瞬、その家の主人も妻も、ふたりの子供も、きょとんと目を丸くした。
主人が笑い声をあげた。「だって、どの単語がわからないのか、わからないよ」
家族全員が、笑い声をあげた。

自分が主張したことで、むしろ、木村はその家族に溶けこめた。彼らは、ほとんど毎日、友人、知人らを呼んできてはパーティーを開く。
木村は、毎日朝九時から午後五時までびっしりとしたスケジュールで、日本舞踊や日本の歌を紹介したあと、パーティーへとなだれこむ。

クセのあるおかあさんと木村は、いつもはしゃぎまくって、名相棒コンビとなった。だが、いっしょに参加している友人たちのなかには、生活様式の違いや言葉がうまく通じないことでノイローゼ気味になっているひともいた。
木村のところに相談しにやってきた友人は、ケロリとしている木村を見て、しばらく泊めてと頼んできた。

アメリカン・ママは、強調して友人にいった。「奈保子は、まったくアメリカ人だから」
木村自身も、アメリカという国が自分に合っている感触を得ていた。

木村はアメリカのホームステイから帰って間もなく、神戸にある「アナウンス研究会」の教室に顔を出した。
いよいよ就職先も決めなくてはならない時期にさしかかり、自分に合った道を探さなくてはならないと考えていたちょうどそのときだった。

これまで、好きな音楽とダンスを習う交換条件で、華道と茶道の教授資格を取得していたし、英語の教員資格も念のためとっておいた。
母校に英語の教育実習にも行ったが、もうひとつの選択肢がほしかった。まだ映画を仕事にするのは考えもつかなかった・・・。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第9編 はみ出しアナウンサー菅原文太

現在テレビ東京の「木曜洋画劇場」で解説をしている木村奈保子は、京都外国語大学英米語学科三年生のとき神戸にある「アナウンス研究会」に通った。数回通った後、元CBC(中部日本放送)のアナウンサーで、プロデューサーでもあった森恭子に声をかけられた。

「あなた、アナウンサーになれるわね。特別に教えてあげるから、わたしの家にいらっしゃい」
森と会った両親は、いった。
「アナウンサーになるかどうかはどっちでもいいけど、あの先生は、人間的にすばらしいから、何でもいいから、かわいがってもらいなさい」
キャリアに興味がない母親も気に入った。

森は、三人のやんちゃな息子を抱え、大家族の中で仕事と家庭を完璧にこなすスーパーウーマンだった。女性とかアナウンスを教える先生の技術などを超えた、魅力と器があった。その森が、無料でレッスンをしてくれた。

いっぽう、木村は、放送局のプロデューサーが教える特別コースの六人中にも選ばれ参加した。アナウンサーの勉強は、木村の感性にそれほど合うものとは思えなかった。が、先生が好きだったので、やめる気にならなかった。やるからには、受からねばモトがとれない、というほどに時間をかけた。

かくして、木村は、CBC放送を受験し、第三次試験までの難関を突破し合格した。
木村は思った。<これでモトがとれた>

しかし、木村は、型通りのアナウンサーの仕事をこなすことは、どちらかというと苦手だった。持ちまわりのラジオ番組で、あいさつに天気の話をするのがいやだった。

「ある男性が、若い女はええなァとおっしゃっていましたが、そういう褒め方は嬉しくありません。若いからいいのではなく、その本人のよさを認めてほしいと思います」
新人のアナウンサーが、このように、自分の意見を強調していったのである。
番組が終わったあと、先輩に忠告を受けた。
「アナウンサーに強い意見はいらないんだ。あたりさわりのないことを話しなさい」

メインの仕事は、夕方六時台の報道テレビ番組で、先輩男性キャスターと訓でニュース原稿を読むこと。すっかり、名古屋方面では知られる顔となった。

しかし、最も気に入っていたのは、中高生の悩み相談と自分の歌を毎週歌うコーナーを持つローカルラジオ番組。それに、試写案内を手にするのが楽しみで、他局の主催する試写会で菅原文太に花束を贈呈し、後で叱られるなど、何かとはみ出した行動で目立った。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第10編 国際ビジネスマンと渡り合う木村奈保子

現在テレビ東京の「木曜洋画劇場」で解説をしている木村奈保子は、CBC(中部日本放送)に入社一年目にして、父親に相談した。

「アナウンサーは、どうも自分に合っていないような気がするんだけど」

父親はいった。
「そうか。会社にいる限り、その会社を儲けさせるほどのことを考えなければいけない。アナウンサー以外で、やれることはあるのか?」
父親はいつも、結論を木村にまかせた。

ある上司が、木村に訊いた。
「ゆくゆくは、どの番組がやりたい?」

木村はひょうひょうといった。
「部長になりたいです。できたら、営業部長が向いているかもしれません」
上司は大きな笑い声をあげた。「はっはっは、ヤンチャなやつだなァ」
局には、理解に苦しむセクハラ男もいたが、優雅な紳士もいて助けられた。

やがて父親が事業を新たにはじめることになった。それまでコンテナ輸送をはじめとした船舶事業が中心であったが、生地の仕入れをはじめることになったのである。
木村は、英語を駆使して外国のビジネスマンたちとやり合う方が、自分の性分にも合っている気がした。

<放送局を辞めて、お父さんの手伝いをしよう>
二年半でCBCを退社し新たな道にむかった。

木村は、父親とともに、アメリカ、ドイツをはじめ海外に出かけた。はじめのうちは通訳としてだったが、交渉の場を重ねるごとにビジネスマンの駆け引きも身につけた。
外国人は、あくまでもロジックで交渉を進める。利益追求というはっきりとした目的に収れんしていく。
木村は、引くときには引き、押すときには強引に押した。その間合いのようなものを、このころの父と娘の間で生まれた師弟関係から学んだ。
同時に、主導権を必ず握らなければならないときには、腹をくくった。

不思議なことに、そのようなときほど、英語が雄弁となった。国際舞台で活躍するビジネスマンたちを相手にしても、一歩も引く気配は見せなかった。
「この条件で、オーケーをもらえれば、わが社はあなたの会社の利益のために、有効な存在となりますよ」

いっぽう、木村は、初対面の人間と何でもオープンに話す性格から、ほとんど交渉相手と仲良くなった。ビジネスの話が終わると、家族ぐるみの接待を受けたりして、ますます交遊は深まった。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第11編 初の映画紹介番組の解説スティーブンスピルバーグ

現在テレビ東京「木曜洋画劇場」の解説者である木村奈保子は、父親の仕事を手伝い、国際舞台で活躍していたあるとき、知り合いの一人から聞かされた。
「FM局で、英語が堪能で映画のことが語れる女性を捜しているらしいの。どう受けてみない?」

録音した外国映画の音声を聞かせながら、映画を紹介する三十分枠のラジオ番組であるという。西部劇をはじめとするアメリカ映画を見続けてきた木村には、うってつけの仕事のようにも思えた。
木村は、映画紹介番組「映画音楽シアター」の解説者に抜擢された。紹介する映画を見ると同時に録音し、あとでどのシーンを流せばいいかを耳で聞いて選び、構成する。台本もみずから書いた。一から十まですべて、自分の仕事だった。
これまでより時間のかかる仕事だが、自分の思い通りに選べることは、木村には何より幸いだった。映画は、人間の感情をリアルに映し出す、もっとも深みのあるメディアだと木村は考える。心理学の勉強が役立った。

一回目の放送は、「ルナ」。

「ラストタンゴ・イン・パリ」を撮ったベルナルド・ベルトルッチ監督の映画であった。月のイメージにさいなまれ、非行を繰り返す息子を、世界的なオペラ歌手である母親が過剰な愛情で包み込んでいくとおう、近親相姦を題材にしたものである。

木村は、タブーの領域に踏みこんだ作品を自分のことばで解説した。家では、たまたま母と兄がそれを聞いていたので、おかしかった。

そのほか木村は、関西テレビやテレビ大阪、サンテレビなどでもレギュラーで映画解説をした。いよいよ映画評論の道を歩みはじめた。
そんなおり、木村は、フランスのカンヌで開かれるカンヌ映画祭に自費で出かけることにした。

木村は、毎年そこに出席する映画解説者の南俊子に同行した。
いまは亡き南は、映画雑誌「スタア」で編集部員として三年間過ごしたのちにフリーとなり、テレビ映画の解説、映画雑誌の評論で活躍していた。

カンヌでは、「E.T.」で招待作品に選ばれた監督スティーブン・スピルバーグや「俺たちに明日はない」でヒロインを演じたフェイ・ダナウェイなどを追いかけ、よけいなところへもあちこち勝手に入り、“写真好きのイエロージャップ”といわれた。
だが、おかげでよい写真と記事が用意でき、神戸新聞のカンヌリポートや朝日新聞の社会欄にも掲載された。

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第12編 小森のおばちゃまの推理力カンヌ風景

現在テレビ東京「木曜洋画劇場」の解説者をしている木村奈保子は、カンヌ映画祭で、同じホテルに泊まっていたニューヨーカーのプロデューサーと知り合った。のちに「レッド・オクトーバーを追え」を製作する彼は、木村にしつこく頼んできた。

「アジアを題材にした映画なんだが、シナリオを読んでくれないか。君にあう役もありそうだ」
さらには、「ルードウィッヒ・神々の黄昏」のオットー殿下で強烈な印象を残した美青年俳優ジョン・モルダー・ブラウンなどからテニスやボートに誘われたりした。が、木村は、取材に専念した。

<遊んでいる場合じゃないんだ!>
映画評論家の南俊子は、そんな木村の行動を母親のようにチェックしながら、ホテルの部屋にいるときには缶詰になって原稿を書いていた。

いっぽう、記者レベルで出席できない招待映画のソワレ会場の招待状を持ってきてくれたのは、買い付け、配給の第一人者、川喜田長政の妻、かしこであった。
「あなた、カクテルドレス、もってきましたか?」

木村は、イブニング、カクテル、着物の3点を用意していた。それを試す良い機会だった。
また、岩波ホールの総支配人、高野悦子の優雅ないでたちも、これまで見たことのないキャリア女性の迫力で印象的だった。

こうした国際舞台で活躍する映画人の存在は、木村に大きな影響をあたえた。木村は、また、“小森のおばちゃま”の愛称で親しまれる映画解説者の小森和子とも親しくなっていた。
個性が強く、バイタリティーあふれるひとだった。彼女は、映画以上に、人との関係をちゃんと見ている。
木村は映画の試写で、小森と隣り合わせることもあった。

小森は、はじめのうちは見ているが、気づくと日ごろの疲れのためか、ときどき居眠りしてしまうことがある。
ある映画では、ラストシーンが終わって、タイトルバックが流れはじめたころに目をさまし、木村に聞く。
「ねえ、奈保子ちゃん、最後はどうなったの?」
木村がラストシーンをかいつまんで話して聞かせるだけで、小森は、納得した。
「ああ、なるほどね。だから、こうなって、ああなって・・・・」
自分が見ていた最初のシーンと、ラストシーンを聞いただけであらすじが読める。その推察力、分析力は素晴らしかった。

木村は思う。
<映画は、知識やディテールではない。ナマ身の人間を再考するためにあるものだ>

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第13編 淀川長治に礼をいわれる淀川長治

現在テレビ東京「木曜洋画劇場」の解説者である木村奈保子は、淀川長治にはじめてあいさつした日のこともはっきり覚えている。東宝東和の宣伝プロデューサーである伊藤滋に連れられ、新作紹介をしているテレビ東京深夜番組「映画の部屋」の収録現場をおとずれたのである。

淀川は、七歳のときから一人で映画を見はじめ、中学時代には映画に没頭した。
「キネマ旬報」「映画世界」などへの投稿活動もさかんにおこなった。ユナイテッド・アーチスツ宣伝部長を経て「日曜洋画劇場」の解説を担当、独特の“淀川節”と“サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ”という別れのあいさつが茶の間で親しまれていた。

木村にとって、中学のころから憧れの的。彼の洋画劇場を見て、映画と英語が好きなった。
淀川は、木村と顔を合わせると、同じ神戸の故郷を懐かしんで、うきうきした。
「ああ、木村奈保子ちゃん、まあ、映画の仕事をしているの?ありがとう。ありがとう。」礼を言われるとは、木村も思ってもみなかった。
「神戸から来たの。そうなの。神戸、ブロインドリーブのお菓子?うれしいなあ。ああ、神戸から」

収録がはじまると、淀川は映画を語る収録中、こう叫んだ。
「あのね、今日は、木村奈保子ちゃんが来てくれているの」番組の中で、三度もそのセリフがあって、まわりのひとびとをおどろかせた。東京ではまだ、木村の名前はまったく知られていたかった。

やがて木村は、思い切って上京した。
仕事がひとつも決まらないまま、スチュワーデスの友人のアパートにころがりこんだ。いろいろな人びとと出会ううち、父親との「一年たって、仕事がなかったら、神戸にもどって来い」という約束の期限が間近に迫った。そんなある日、ひとりのプロデューサーと出会った。日本テレビと関わりがある制作会社のプロデューサーだった。

彼は簡単にいった。「じゃあ、あなたのいうような、映画紹介番組をやりましょうよ」
木村は、跳び上がりたい気持ちだった。
<これで、救われた!>

ところが、それからいつまでたっても、そのプロデューサーからは連絡がない。
いったいその番組はいつはじまって、どのような段取りで収録をすすめていくのかも決まっていなかった。
木村はそのプロデューサーが所属している事務所に何度も電話を入れた・・・。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第14編 番組できない時は嫁に行けイラスト

木村奈保子は、日本テレビと関わりのある制作会社のプロデューサーが所属する事務所に何度も電話を入れた。
そのプロデューサーは、木村にいっていた「映画紹介番組をやりましょうよ」

やっとつかまったプロデューサーに、訊いた。
「あの番組は、いつからやるんですか?」
プロデューサーはいった。「いいよ、いつからでもいいからやって」

どういう意味なのか、さっぱり見えてこなかった。
もう少し話を詰めるために、強引に彼と会う約束を取りつけた。
彼と顔を合わせ、いった。「わたしのギャラのことでしたら、気にしないでください。いくらでもかまわないんですよ」
彼はいった。「いや、ギャラは、私があなたに払うんじゃなくて、あなた自身が制作費を集めてくるんですよ。」

<えー?番組制作費が全然ないの?>
だまされたとの思いが、木村の胸に広がった。木村はさすがに打ちひしがれた。

めずらしく、父親に弱音を吐いた。父親には、番組出演ができそうだという話はすでに電話で話していた。
父親はあっさりといった。「そんなことなら、制作費を集めてくればいいじゃないか」
木村は、内心つぶやいた。
<簡単にいうけど・・・・>制作費というが、一回で終わる番組ではない。レギュラーとして毎月何百万円ものお金を集めなければならない。だが、資金がなければどこかから引っ張ってくるのが経営者である父親としての当然の発想である。

木村は父親に訊いた。「集まらなかったら、どうしよう」
「できなかったら、嫁にでもいけばいいじゃないか」
父親は、木村が自立を志していることをじゅうぶんに知っている。嫁ぐことを嫌がっていることも知っている。娘の心理をうまく突いた、発破のかけ方であった。

その言葉は、迷っていた木村を燃え上がらせた。
<やるしかない!>

木村は、自分の番組にメリットを感じてくれて、スポンサーとなってくれそうな企業をまわりにまわった。
一ヶ月ほどたって、ちょうど広告費を削減できないかを検討している会社に出合った。
担当者は意外にもよろこんだ。日本ビクターである。
「そんな金額で、テレビ番組ができるの?」普通の制作費とはかけはなれた金額で、挑戦することになった。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第15編 自作自演の木村流制作スタイル神代

木村奈保子は、ふつうの制作費用とはかけはなれた安い金額で、新番組制作に挑戦することになった。編集をはじめ、ナレーションづくり、顔出しコメント撮影、テロップ発注までありとあらゆる作業は木村自身がする。カメラクルーや技術会社との金銭交渉もしっかりやって、スタートした。

こうして日本テレビの「シネマ・バラエティー」は、スタートした。深夜にしては視聴率がよかったうえ、映画会社とも懇意になった。
しばらくたって、同局から那須博之監督の「ビー・バップ・ハイスクール」を“メイキング”という形で紹介する特番の制作をまかされた。いわゆる、映画監督になるためみ、テレビディレクターや助監督がまず手掛けるテレビ用の映画番組である。

この不良コンビの学園生活を描く青春喧嘩アクションの映画撮影は、不良っぽい落ちこぼれの若者たちをエキストラとして集めていた。
リーダー気質に富んだ木村は、主演の仲村トオルや清水宏次郎はじめそのほか大勢のヤンキー系の若者たちと妙に気が合った。

「嵐を呼ぶ青春・ビー・バップ・ハイスクール」と題された特番は、彼ら自身のそれぞれのはぐれた気持ちを素直に映し出して、これまでにないメイキング番組に仕上げることができ、高い視聴率を獲得した。

木村は充実感を抱いていた。

<コレだったのか、自分に向いている仕事というのは>

その後も、木村には、映画の「メイキング」をはじめとして特番制作の依頼が寄せられた。ただし、製作期間が一週間とか、すでに撮影も終えている作品で、出演者も出られない。そのうえ、予算も信じられないほど低く抑えられていた。しかし、だからこそ、アイデアとエネルギーも湧き起こった。誰にも仕切られず、自分の手腕で自由に番組を作ることができる条件は最高だった。

<撮影現場を見せる、いわゆる、映画ファン向けの番組では視聴率はとれない>

もっともその映画の観客を増やすためには、それほど映画に関心のないひとたちを引きつけることが重要だとまず考えた。
次に神代辰巳監督の「離婚しない女」の特番では、木村自身がまず解説者としてメッセージを送る。

「男と女の関係が時とともに多様化してきたように思いますが、やはりそれは女性側の意識が少しずつ変わってきたところにあると思います。いま男と女のハッピーエンドストーリーはどこにあるのでしょうか」

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第16編 女の生き方、男のやり方がテーマ高倉健

木村奈保子は、神代辰巳監督の「離婚しない女」のメイキング特番もつくった。

映画製作の撮影現場やエピソードの取材でなく、作品のなかで、ひとりの男をめぐり女同士が火花を散らす、倍賞千恵子、美津子姉妹に、自分自身を語らせたインタビューにもっとも時間を割いた。

木村には、千恵子が語った冷静な意見が印象的だった。
「男のひとでも、女のひとでも、手の甲側と手のひら側のように二面性がありますね。出会ったときには手の甲側が見えているだけ。でも、かならず手のひらの側が見えてくる。それで、いろんなことが起こるわけなんだけど。最初から、両方見えていればいいのにね」

木村は、倍賞千恵子が好きで、日本でもっとも敬愛する高倉健の相手役としては、いまだに倍賞千恵子しかないと考える。のちの、「鉄道員(ぽっぽや)」の大竹しのぶは、絶対にいけないと木村はいう。

さらに、生き別れた姉妹が十数年後に再開し、ひとりの男をめぐって対立する、宮尾登美子原作、山下耕作監督「夜汽車」のメイキング特番「走りつづける女たち」の制作も手がけた。

主演の露子を演じた十朱幸代が見せる、目をみはるほど魅力的な気っぷのよさは、役柄だけではないことにも感心した。
木村は、女性の生き方をテーマに掘り下げた特番を企画制作、出演するいっぽうで、若者映画の特番も撮っていた。木村一八主演の「シャコタン・ブギ」を題材に、日本テレビの1時間番組、テレビ東京の30分番組を東映から頼まれた。すでに撮影も終了し、俳優も出演できないという。材料としてあるのは、予告編だけであった。制作期間も1週間ほどしかなかった。

木村は、スタッフの青年たちと、予告編を何べんも見ているうちに、「シャコタン・ブギ」に登場する若者のナンパ・シーンに目をつけた。

<ナンパ=男の子たちのアプローチについて語り合うトークにしよう>

日本に精通しているジャーナリスティックなアメリカ人タレントのデーブ・スペクターをゲストとして呼び、木村との対談形式で進めていった。デーブはいう。

「アメリカでは、軟派と硬派の境目というのがクリアでないんですね」

それを切り口に、男女関係を中心として日米の若者カルチャーの比較論を語りあう。

その会話の合間に、映画「シャコタン・ブギ」のワンシーンを流す。ゲストをかきたてながら出演し、同時にスタジオ撮影料金を頭の中で計算している自分が、じつに自分らしいと木村は考えていた。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第17編 ゴールデンタイム初出演クリントイーストウッド

木村奈保子が、日本テレビと同時に頼まれた、映画「シャコタン・ブギ」のテレビ東京分の特番で、木村が設立していた制作会社シネ・ショッカーズ・キムラの男性スタッフ三人に、若者の町である原宿で実際にナンパをやらせてみることにした。その様子を、キャスターとして出演する木村が、ゲストであるタレントの斉木しげると採点しトークした。スタッフの一人が、原宿を歩いている若い女性に話しかける。

「あのう、おひとりですか?中華料理食べませんか?」

ナンパに慣れていないスタッフたちからは、つぎつぎと素人のセリフが飛び出した。思い切り、コメディー番組になった。スタッフというものは、もともと淀川長治の映画友の会から引き抜いてきた映画ファンであった。

木村は香港映画人的に、ひとり何役も兼ねる制作方法で番組を作り上げ、仕事のスタイルをつくっていった。

そんなある日、木村は、当時テレビ東京の「木曜洋画劇場」のプロデューサー石川博と顔を合わせた。
「『木曜洋画劇場』の解説を、ピンチヒッターでやってもらえないでしょうか」

それまで「木曜洋画劇場」で解説をしていた河野基比古は、病気で収録ができなくなったのだという。そのかわりに、六週間だけ、木村に解説をしてもらいたいというのであった。

彼は、以前木村のつくった特番を見て、一つの映画を紹介するのにも、目の付け所が違うと興味を抱き、いつか仕事を頼みたいと思っていたのだという。

「木曜洋画劇場」は、その名の通り、毎週木曜日の午後九時から午後十一時まで、ゴールデンタイムの番組である。木村はテレビ東京側が選んできた映画の六週分、六本に解説出演した。

初解説は、この番組ならではの試みで、アメリカのテレビシリーズを放映した。シドニィ・シェルダン原作の「真夜中のエンジェル」であった。タフな女性が活躍するヒロインもので、木村の趣味にピタリと合った。

「ヒッチャー」では、後解説で、犯人はホモセクシャルかも、と口走ったりして、視聴者に強い印象を残した。

「木曜洋画劇場」は、「ダーティーハリー」のクリント・イーストウッドの出演回数がもっとも多いことでもわかるように、ハリウッドのアクション映画を多く放映していた。

木村は、自分でも乗馬と射撃とボクシングをたしなむほど、こうしたヒーローアクションが好きである。従来のアート系評論家が苦手とした分野が逆に入り込みやすかった。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第18編 最年少映画解説者の誕生クリントイーストウッド

木村奈保子がテレビ東京の「木曜洋画劇場」でピンチヒッターの解説者として出演したあと、現任の解説者である河野基比古はいったん復帰した。しかし、病気がちでついに降板することになった。

ピンチヒッターのときに高視聴率をとった木村が、その後を引き継ぐこととなった。最年少女性解説者の誕生であった。そのことで、木村奈保子の名前は、一気に全国に知れ渡った。

後解説の最後に、みずから考えた「あなたのハートに何が残りましたか」のセリフがいいと評判になった。

木村はキャッチフレーズについては、誰からも希望されなかったが、淀川長治の「サヨナラ、サヨナラ」に変わるものが、どうしても欲しいと思った。しかし、他のテレビ解説者のように強烈なキャラクターがいないため、わざとらしいことはできない。

そこで、木村は、多様化した現代映画では、見る者によって意見、感想が違って当然だろうと思っていたことから、呼びかけスタイルにした。特に後解説で、その日の映画から取り上げたテーマを述べ、見た者の考え、人生観などを問う姿勢で、これまで受身の視聴者の気持ちを発奮させたい、という狙いがあったのだ。

どんなありきたりなアクション映画にも、主人公の怒りや憎しみなどの“感情”がベースになっていることから、心理学的なポイントをついて、“ハート”を入れた。

それでも、レギュラーとしてはじめる前は怖かった。これまで番組作りをトータルに請け負って仕切っていたため、木村は久々に出演者側として起用されていることに少し不安があった。

<担当者は、自分のやり方、考え方を理解してくれるだろうか>

出演者を生かすも殺すも、プロデューサーの器しだいだということを知っていた。
木村を解説者に抜擢したプロデューサーは、木村のこだわりをじゅうぶんにわかっていた。木村が、あらかじめまとめてきた原稿を見て、木村の言いたいポイントを素早く掴み、それを言いたいなら、この表現の方がテレビ的かも、とアドバイスもアイディアのひとつとして与える。ゴールデンタイムならではの、より一般的な、わかりやすい表現が必要であることなど、重要なポイントだけをチェックする。まさに、頭の切れる、沈着、冷静なプロデューサータイプだった。

まかせきれば、妥協せずに懸命にやる木村の性格も見抜いていた。木村にとっては、それまで出会ったテレビ関係者で、もっとも自分をうまくあつかっていると思えるプロデューサーであった。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第19編 新メディア ビデオマガジンクリントイーストウッド

約十年もの長きにわたって、木村奈保子がテレビ東京の「木曜洋画劇場」の解説者として自分のスタイルを保ち続けられるのは、プロデューサーが木村にすべてをまかせるというスタートがあったからにちがいない。

木村は、洋服のコーディネートをはじめ、すべてをまかされた。

木村は、撮影場所にもこだわった。「木曜洋画劇場」の撮影は、現在月に一回ぐらいで、一回の撮影で三週分、三本の映画の解説を撮る。

撮影は、木村の気に入ったバー、ディスコで撮ることにしている。

自分が日頃を過ごしている西麻布、六本木界隈で、都会風のクールな雰囲気、場所を好む。

プライベートで出かけていても、ついつい癖で、気に入ると、頃合をうまくはかって、撮影のタイアップ交渉に入る。

店の回想で雰囲気が変わってしまったり、店の事情で撮影ができなくなってしまったことなどがあると、次の店に移動することになるからだ。

木村は、短い解説の中でも、トータル的にどうすれば映像的にいいか、こだわりは常に持ち続けている。

一方で、日本ビクターとのかかわりから、木村はさまざまな企画をたてて持ち込んでいた。
そのなかで、日本ビクター(株)とのシネ・ショッカーズ・キムラ(有)の合同で制作をスタートさせたのが、新しいメディアであるビデオマガジン「ビー・ダッシュ」であった。若い男性向きファッションのコーディネート・ビデオで、いまや人気グループ「グローブ」のメンバーである、マーク・パンサーを主要キャストとして起用した。木村本人は全く出演しない演出、プロデュースのみの作品だった。

一つの雑誌をビジュアル化するという新しい試みに、日本ビクターは、力を入れた。

木村は二回目に海外取材を提案した。
「どうせやるなら、ニューヨークで撮りたい」

エグゼクティブ・プロデューサーの渋谷敏旦は、ビジネスマン系のチャレンジ精神旺盛な人物だった。女性と一緒に仕事をするのは嫌いだが、木村なら大丈夫だろう、どこまでもやりきるだろうと全面的に支持した。

マンハッタンの観光スポットでファッションを紹介していく四十分もののビデオマガジン「DIG MEN」に、木村は双子のモデルとして注目を浴びていた高橋兄弟をプレゼンターとして起用した。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第20編 女が強いと後々すがすがしいハーレム

ニューヨークはマンハッタンの観光スポットでファッションを紹介してゆく四十分もののビデオマガジン「DIG MEN」に、木村奈保子は双子のモデルとして注目を浴びていた高橋兄弟をプレゼンテーターとして起用した。

撮影期間は十日。

といっても、それだけではすまされない。
このファッションビデオとは別に「ニューヨーク・ガイドビデオ」という三十分もののビデオ、高橋兄弟の写真集を、同時進行することになった。
スタイリストや技術クルーはニューヨークに住むアメリカ人が中心であった。

<スタッフの腕は大丈夫だろうか。コーディネーターは、行ってからで本当にいいのか>

さまざまな不安があった。
しかも、ニューヨークロケが決まったあとに、木村が解説をしているテレビ東京の「木曜洋画劇場」のプロデューサーからも撮影を頼まれた。

「どうせニューヨークに行くのであれば、今度内で放映する映画特番『フレンチ・コネクション』の解説撮りもしてきてよ」
日程的にはかなり厳しい。
しかし、木村もやりたかった。プロデューサー兼ディレクターとして参加した木村は、現地のスタッフをとりしきり、精神的に問題はなくとも、物理的には厳しく、寝る暇すらまったくなかった。
このとき、イタリア系のセクシーなスタイリスト、ジョーンは、木村と気が合った。
離婚を経験しているので、元の夫のことに触れると、彼女は笑った。

「前のダンナ?ああ、あそこに座っているヤツよ」

バスのなかにいる、ひとりの男性カメラマンを指した。さっきから、何事もなかったように話していた相手だ。

<女が強いと、あとあとすがすがしい>

木村は、アメリカ型のさばけた男女関係を支持している。
撮影は、まさに戦争のようにあわただしかった。特に人々が恐れる危険地区、ハーレムのなかでのシーンが問題となった。
「こんな時間に、おれでさえ、このハーレムに来たことがないんだよ」
黒人のバス・ドライバーが怖そうにいった。通訳がいなかったが、意味を察知した高橋兄弟の元気がなくなっているのに、木村は気づいた。

<おじけづくなよ、兄弟>

じつは、数々のスターを生んだハーレムで有名な劇場のひとつ“アポロシアター”に、彼らを出演させようという企みがあったのだ。
ところが・・・。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第21編 四文字言葉で黒人女性に反撃アポロシアター

ビデオマガジン「DIG MEN」のプロデューサー兼ディレクターをつとめる木村奈保子は、数々のスターを生んだハーレムで有名な劇場のひとつ“アポロシアター”に、双子のモデルとして注目を浴びている高橋兄弟を出演させようとしていた。

ここは、アマチュア芸人がステージで芸を披露し、観客の評価を受けるところ。客をわっと沸かせるか、ブーイングとなるかで、勝負は決まる。芸は、モデリング・ウオークでもかまわない。千人近い観客のほとんどすべてが黒人で、映画にも出てくる有名なスポットだ。

出演者の出番を調整する、まるまるとした、いかにもたくましい黒人女性担当者が、控え室にやってきて、たたきこむような口調でいった。

「日本人の二人組は、あと六番目よ」
「オーケー!」

木村は、わくわくして答えた。

しかし、高橋兄弟の様子がおかしい。ようやく一人がぽつりといった。「具合が悪いので、出られない」

木村はがっかりした。

<いまさら、どうするんだ・・・>
しかし、いつも元気でまじめな彼らが、ノーというのはよほどのことだ。木村は、黒人女性に断りに行った。黒人女性は、大きな眼をぐりぐりとさせながらいった。

「何だってえ?」

独特の怒り言葉を繰り返し、木村に詰め寄ってきた。
木村は、はじめのうちは耐えていた。が、ついに腹にためにためていたものをぶちまけた。リズミカルな黒人女性の口調をまね、四文字言葉を使いまくって反撃に出た。
すると、それまで怒っていた彼女が、はははと笑いはじめた。

木村は、いくつかの言い訳をしてから、つづけた。
「アポロシアターに来るのが夢だった。なんなら、自分が出て、タップを踊ってもいい」

木村は、三ヵ月ほどタップをたしなんだことはあった。見せられるようなものでないことは、もちろんわかりきっていた。ジョークのつもりで、いい加減なことを口にしたものである。

だが、黒人女性はいった。「じゃあ、いまタップを踏んでみろ」

木村は、タップを軽く踏んだ。
黒人女性は、懸命にタップを踏む木村を見ながら、ふふと笑った。

「オーケイ。もう、いい。出演はキャンセルだね」

木村は、友好的にキャンセルすることができた。控え室に戻り、彼らを安心させた。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第22編 レッドフォードを撮影

ビデオマガジン「DIG MEN」のプロデューサー兼ディレクターをつとめる木村奈保子は、ニューヨークで衣装とメイクを自分のために用意した。テレビ東京のプロデューサーから頼まれた「フレンチ・コネクション」の解説を収録した。特番なので、前、中、後と三ヶ所でのコメント撮りを行った。野外で解説をしたのは、あとにも先にも、このときだけであった。

あまりにもハードなスケジュールに、さすがにタフな木村も、帰国する飛行機に乗り換えるために降りたワシントンの空港で、ついに倒れた。

木村は単なる貧血だということはわかっていた。だた、アメリカの“救急車”であるアンビュランスに乗せられ、救急病院に担ぎ込まれた。救急病院では、さまざまな質問が浴びせられた。

「何人(なにじん)だい?」 「妊娠してるのか?」

ふらふらになっている木村は、今にも、弾け飛びそうであった。

<うるさい!三時間も眠らせてくれたら、治るの!>

目が覚めたとき、木村は覚えのない紙の寝巻きのようなものを着せられていた。

<余計な検査でもしようとしていたのか>

木村は紙の服をビリビリに破り捨て、救急病院から逃げ出て日本へ向かった。撮影テープが無事に先に着いていたことがありがたかった。

木村には、その後も、さまざまなプロデュース、ディレクターの仕事が舞い込んだ。その中には、ロバート・レッドフォードのサンダンス映画祭プロモートビデオの製作もあった。

レッドフォードが若い映画人を育てるために支援するサンダンス映画祭を日本でプロモートするための取材、撮影である。木村にとって、ロバート・デニーロの次に好きなレッドフォードの仕事は、期待が大きかった。

1970年代のスター時代から、いまもハリウッドの現役トップの映画人として監督、主演で活躍しているレッドフォードの魅力は、あの金髪の甘い二枚目顔をもてあましていることだ、と木村は言う。

ラブストーリーの主人公を演じるのは生きる手段であって目的ではない、とレッドフォードは言った。木村がかねてから共感していた彼の考えはこうだった。

「俳優はフラストレーションだ。演じさせられるのではなく、すべて自分でコントロールして自分のビジョンを具体化したい。だから、監督や製作を手掛けるのだ」

スケールこそ違うが、木村が仕事をするときいつも執着し、求めたことだった。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第23編 レッドフォードの完璧主義

木村奈保子は、アメリカのユタ州山中にある小さな町、サンダンスに出向いた。

ロバート・レッドフォードが、若い映画人を育てるために支援するサンダンス映画祭を日本でプロモートするための取材、撮影のためである。

一月の寒い時期だった。木村はロサンゼルスからのカメラクルーを呼び、雪山のなかで出迎えた映画祭スタッフに案内されて、レッドフォードの施設、サンダンス・インスティテュートに到着した。ここでの仕事は、映画祭の模様をビデオ用に撮影するのとレッドフォード自身へのインタビューを収録することだった。

木村は記者のなかの代表インタビューアーでもあった。日本の記者会見と違い、質問は英語に限られた。英語で書いたビデオ用の構成内容を何番目かの秘書に見せた。映画のキャンペーンと違って通訳も用意されていない。
レッドフォードに対する質問はこうで、このように使う、という説明を念入りに行った。

あれはダメかも、これはダメかもと首をかしげ、翌日まで返事を待たされる。
翌日、別の秘書が来て、ああでもない、こうでもないと指摘する。また書き直す。
その翌日だったか、2番目くらいの偉い秘書が来て、折衝後、やっとゴーが出た。

木村は、レッドフォードのインタビュー前日、うきうきして街でセーターを買った。

当日は、スタッフといっそう懸命、暖炉に火をくべた。最もレッドフォードがお気に入りのスタイルは、めらめら燃える暖炉の前で撮影することだと聞いていたのである。証明の角度も綿密に打合せが行われ、秘書たちともども、レッドフォードが現れるまで神経をぴりぴりさせている。日本人は、こうした俳優の姿勢にきっと苛立ち、そんなに偉いのかい、と文句を言いたくなるだろう。が、木村はレッドフォードの完璧主義を尊敬した。

<期待されるスターとして、見られる側にある立場なのだから当然だ>

ようやく現れたレッドフォードは、ジーンズにカウボーイブーツというラフなファッションで、気さくに握手した。五十代後半だったが、少年のように澄んだ瞳が印象的だった。

「イッツ・グッド・トゥー・シー・ユー」

<こ、これは、あの映画「アイと哀しみの果て」でメリル・ストリープにも使った言葉じゃないか!>

木村は、いちいち感慨深くなった。そして、木村は、母親に用意してもらった真珠のタイピンをレッドフォードにプレゼントした。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第24編 バナナをつけた女たち

木村奈保子は、ロバード・レッドフォードが若い映画人を育てるために支援するサンダンス映画祭を日本でプロモートするための取材、撮影をアメリカのユタ州サンダンスで行った。

レッドフォードは「大統領の陰謀」や「クイズ・ショウ」など社会派映画を作り、後輩の映画人を育てようと力を貸す。まじめで、志の高い映画人で、広い器の男。木村にとって、まさに、理想のヒーロー像のひとりだった。

「文化交流は理解から生まれ、理解は国境を超える。映画というメディアは文化を理解するための最良の方法です」

彼の口からは、国際人としてのセリフがつぎつぎと出た。出品作品は、ほぼ無名の監督、出演者の低予算もので、ハリウッドスタイルからはみ出た人間ドラマが中心だが、決してマニアックなものではない。このあと、ここからぞくぞくとヒット作、話題作が誕生し、サンダンス映画はいまひとつのブランドとなった。

後日談によると、その後の来日記者会見の席で、退屈したのか、レッドフォードは女性の顔をイラスト描きし、あとでそれが写真誌に掲載された。
それが木村の顔だった、と他の記者から伝わった。

やがて、木村には「木曜洋画劇場」の威力と、めずらしさも重なって、映画評論家としての取材、執筆の仕事がどっと押し寄せた。

映画の評論をするためには、新作を追ってみなくてはならない。
その時間でいっぱいいっぱいとなり、ビデオやテレビ番組の製作までは、さすがに時間がとれなくなった。
木村の仕事の比率は、しだいに執筆活動に重きを置くようになっていった。

アメリカ映画の女性像の変貌に注目した木村は、初コラム集「バナナをつけた女たち」を執筆した。

それを皮切りに、「ハナモクしてますか?」「エキサイティングな女たち」「スリリングな女たち」「男性にストレスを感じたときに読む本」「女を読む映画」「男を叱る」「男を読む映画」などを書き上げていった。

「女を読む映画」では、日本文芸大賞特別賞を受賞した。木村はその時、賞以上に、高倉健から祝電をもらったことがうれしかった。木村の著作には、かつての映画ファンとは違った映画の見方、現代感覚がしっかりと見据えられている。いまや衰退した日本の映画に限らず、一般社会にもある遅れた意識、センスを取り戻してもらいたい思いで、男女関係やヒーロー像などについて分析する。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第25編 セラピーも得意ジャンル

木村奈保子は、執筆活動が多くなるいっぽうで、テレビ東京「木曜洋画劇場」の解説者となったころから、講演の依頼を受けることも多くなった。
企業の新入社員の教育から、民間団体にいたるまで、その依頼は多岐にわたる。

「男と女の関係におけるグローバルスタンダード」といったテーマが多く、映画を題材に、変わりゆく現代の性的意識について語るものが多い。

また、セラピーの明確ないまのアメリカ映画から「親子関係の確執」など、その人間関係の根本にも迫る。

木村はよく、これまでのどの評論家タイプを目指すのかと訊かれる。木村は、「映画と精神分析」を書いた精神科医の小此木啓吾だと答える。なにより、人間の感情、心の闇に興味のある木村は、そんな意味で他のどの評論家よりも、小此木の見方に近い、という。小此木には何度か面会し、学会にも同行したこともある。

木村のところが、駆け込み寺になるのは、セラピストの資質が強いからであろう。

そして、アメリカ映画の基本は、おちこぼれ人間の起死回生物語。そういう、人と違った人間がエネルギーを発揮して、立ち上がるサクセスストーリーが中心だ。

木村は、自分の小さいころの型破り的な性格から、そんな主人公たちに共感する。
現実では、勉強だけのインテリや型にはまった人間が多すぎると、木村はいつも思う。

面白くない人間なのに、女は母親という権力で、男なら社会的な権力で、個性ある子供を支配し、持て余している。本来の魅力や個性がつぶされていく。

木村は、子供心がよくわかる。少年たちにすかれる。

<自分が子供だからかも。いつも、なんかいたずらしたい>

木村は、バリバリのフェミニストかと思うと、そうでもない。
少年とオジサン、アメリカ人女とイタリア人男、ビジネスマンとアーチスト、このあたりの点で、なにかとハーフなんです、と不思議な自己分析をする。

まわりには、両親のいずれかから幼いときに痛みをうけて、それがトラウマ(心的外傷)になっている大人の友人が、じつに多い。

木村は、父親から完璧なセラピーを受け、母親にありがちな、子供との共生関係といった重荷を背負わされずにすんだことを人生で最も幸せなことだと考えている。
だから、それを社会で人々に返したい、伝えたいと思う。

アメリカ映画では、そんなテーマを真正面からとらえた作品がいくつもある。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第26編 講演タイトル「男を叱る」

。テレビ東京「木曜洋画劇場」の解説をしている木村奈保子への講演のタイトルは、依頼者の希望で違う。

以前、映画とは関係のないエッセー集で、週刊現代の連載に加筆した本「男を叱る」を刊行したとき、講演タイトルに、そのものずばり「男を叱る」で依頼されたことが何度かあった。

依頼者は、意外にも男性で、じゃんじゃんしかってくださいよ、といわれた。

<時代もかわったなあ。でも、いいのかなあ>

若い男性ならまだしも、ターゲットは四十代前後の男性である。
千人近く男性がいて、目の前でしかることもあった。
ほとんどは、木村の語り口に、ニヤニヤ笑っている。

きっと、テレビに出ている女性を見て、ちょっと好奇心がわいているのだろう。
余裕のある紳士か、前向きな姿勢か。

やはり、木村の話が受けるのは、年配の経営者タイプや三十代の若い世代である。
女性を戦力として使うことに真剣だから、勉強になるというのだ。

中には、露骨に顔をゆがめる男性もいる。嫌だからか、忙しいからかは不明だが、席を立とうとした。

木村は、すかさずその男性を呼び止めた。

「どこへいらっしゃるんでしょうか?」

にっこり笑っていうのが楽しい。

ただ、著書「男を叱る」は、ほとんど女性の友人、知人の愚痴、体験談をメーンにして、木村が分析解説したもので、実話ばかり。

書いたとき、しばらく男友達のだれもが電話してこなかった。

大先輩の評論家、いまは亡き田山力也は、キャッチフレーズを見ただけで激怒し、直接連絡してきた。

「こんなのおれのことばっかりじゃあないか!」

いつものごく皮肉めいた冗談で責めてきた。
口うるさいことで業界で怒られた田山に、木村はいつも二倍返しでいい返し、楽しんだ。

それにしても、女というものは、男性の前でいかにほほ笑みを見せ、あとから陰でどれほど文句を吐きまくっているか驚かされる、と木村自身がいう。

日本の女性は、立場が弱いだけでなく、どういい返していいか、表現方法もわからなければ、嫌われていいとの覚悟もない。

だから、男性も、その女性が嫌がっているのか、そうでもないのか、いつまでたってもわかりにくい状況がある。

「女性も変わるべきなんです」 木村は、そういう。

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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第27編 すべての落ちこぼれにエール

木村奈保子は、趣味を生かした、映画音楽コンサートの講演も開く。オーケストラが映画音楽を演奏するのが中心で、木村は進行と解説をつとめる。ここまでは、評論家として珍しくもない。しかしある日、新日本交響楽団のフルート奏者、坂橋矢波に「よかったら歌も歌ってください」と声をかけられた。バンドボーカルをやったり、ジャズやシャンソンも習っていた木村である。テレビの深夜番組、ラジオなどでテーマ曲として流していた自分の持ち歌「雨のレイトショー」を歌いながらステージに登場したこともある。

木村がジャズを習ったころの練習曲のひとつ、「世界残酷物語」のテーマ曲「モア」を歌った。つづいて、黒人シンガーからもレッスンを受けた練習曲「ゴースト」のテーマ曲で「アンチェインド・メロディー」などを熱唱した。

その後、福岡のアクロス大ホールで、一時間半の講演をする前、三十分のミニコンサートで、ピアニスト立花洋一の演奏で歌った。

また、今年二月、国際映画祭のプロデューサー小松陽一が率いる夕張国際映画祭でミニライブを開いた。

「その時間は、帰る時間だよ。聴けなくて残念だなあ」

といってくれたのは、「男はつらいよ」の山田洋次監督だ。山田映画は、日本的な映画のようで、湿りけのない後味はむしろアメリカ的だと木村は考える。木村のいまの日本映画の男女関係は古いと話したことに、山田は十分に耳を傾けた。

かくして、このホテルのステージは、ほとんど歌だけのコンサートになった。木村は八曲も歌ってしまい、さすがに心配になった。

<やりすぎたなあ>

ハリウッドのアクションスターのスティーブン・セガールの息子、剣太郎セガールが花束を渡してくれた。

険太郎が初監督をした映画はこのときはじめて上映され、そのセンスの凄さと新しい男女関係を理解する姿勢から、木村は日本映画界での険太郎の監督活動を期待している。

とにかく、面白い発想の人間が増えて欲しい。男も女も関係なく、ハートのある、ユニークな人間、リーダーシップのとれる人間がもっと生きやすい時代になれば、日本の国も良くなるだろう、と木村は考える。そうでなければ、ソフト戦争には勝てない。すべてのおちこぼれのために、木村はエールを送る。

まだまだエネルギーを余らせている木村は夢を語る。

「アメリカのヒロインに並ぶ進歩的な女が登場する、死ぬほどセンスのいい、ハートに残る、かっこいい女性映画を作りたい」

(東京中日スポーツ 大下英治の深層ドキュメント「女たちの21世紀」より)(敬称略)

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