第120章 偶然の味に感謝の念
メキシコでのコメの位置付けは五穀(米、麦、粟、豆、玉蜀黍)などの類として扱われている。従って我が国のように主食ではなく、料理の付け合わせやスープの具材にされる場合が多い。メキシコシティから170km南西の街、タコス周辺からメキシコ湾岸に沿った地域で、主にインディカ種が作られている。勿論、ジャポニカ種も食べられているが、長くて水分と粘り気の少ないインディカ米が好みのようだ。ユニークなのはその調理法、生米を加熱したたっぷりの植物油の中で泳がせて糠の癖を捕るのである。イタリア料理のリゾットだとバターやオリーブ油で軽く炒めるくらいだが、何とも大胆なやり方である。油を切った後、絞ったトマトとライムジュースで人参、ズッキーニ、青豌豆などの具材と共に調理されるのが一般的だが、白く仕上げる場合は玉ねぎやにんにくと共に水で加熱する。メキシコで米料理はSopa de Arroz(米のスープ)、もしくは、Sopa Seca(乾いたスープ)と呼ばれ、スープを充分に吸わせた野菜料理として捉えられている。定食屋では液状のスープと共に提供されており、肉や魚の皿に添えられて、おかずのように食べられている。一流レストランだと顧客は富裕層が多いせいか、アレンジで海老や鶏肉等が加えられ、贅沢な一品の付け合わせとして調理される場合もある。在墨時、地方を巡っていた頃、ある店では香味野菜の風味豊かな白飯に揚げたバナナが乗っていた。その取り合わせの妙味に感動したのを覚えている。
代官山、旧山手通りのオープンに向けて準備を進めている時期、最大限の美味しさを求めてジャポニカ種のブランド米を使うことに決めていた。主食が米の日本では味覚が繊細で、安物だと客達失望させるのではないかと考えていた。この選択が後に思いもよらない効果を生むとは仕込み当日まで、まだ知る由もなかった。前日、水洗いした米を半日干し、次の日、調理工程を経て、オーブンから出した時だった。何と、ほぼ全量の米粒が半分割れているのである。品質が良すぎて芯がないのが理由だった。失敗だがもう一度50人分を仕込み直す時間は無かった。そのまま提供すると、開店記念に訪れた招待客の皆は口々に「何!この弾ける食感、美味しい!初めての味!」と絶賛の嵐である。こんな幸運が待ち受けていようとは夢にも思わなかった。その時以来、このメキシカンライスのファンは増え続け、失敗作のまま、40年仕込んでいる。何が幸いするか解らないが、オリジナリティ溢れる一品は顧客達の間で自慢の種として語り継がれる事態に発展していった。相乗効果に恵まれたのはこれだけでは無かった。米を加熱した油を海老や鶏、牛、豚等の献立の炒め油に使用したところ、良質の米の旨味、香りを持ち備えた最高の油に変身していた。偶然とはいえ、店の味を確立できた状況を鑑みると、持って生まれた何かが支配しているとしか思えない。与えられた結果に、日々感謝の念である。
第121章 奇跡的なご縁
現在の場所で再出発の目処が立ったのは1986年の始めだった。ビルの図面はできていたが、オーナーと設計者にお願いをして一部をテラスに変更、壁は一面をガラス張り、床は増築をして厨房の面積を確保し、更に、裏口の外には屋外冷蔵庫の設置、倉庫対応の設備、更衣室、トイレ等、願い事の限りを尽くしていた。を振り返ればよくぞ強引な店子の要求を聞き入れてくれたものだ。おまけにビルの命名までさせてもらった事実は、その時の私は余程、自分勝手に燃えていたのだなと、自身でも呆れ返る。時はバブル景気の真っ只中、世の中は贅沢に浮かれていたが、メキシコ料理再現の為に資金を全て店に投入する姿に、高梨大家は感銘を受けてくれていた。何度か共に食事をする中でメキシコの食文化を熱く語る私に影響されたのか、「自分も飲食の店をやりたくなった。」と心境に変化が訪れていた。イタリアが好きな彼は、ラ・カシータのオープンと同時に「カターニャ」の名で1階に開業する運びとなる。有能なシェフを雇い、中々美味しい店だったのを思い出す。隣で八百屋を続けながら運営をしたが、数年で疲れたのか、いつの間にか物販テナントに貸すようになったのは残念だった。根が優しい彼は仕事柄、野菜に詳しく、事ある度に色々教えてくれた。2014年に旅立ってしまうのだが、店の現在があるのは、大いなる理解を示してくれたスタート時だと感じている。
以前、第24章でも触れたが、店の内装工事が進む段階でメキシコ本国を巡るチャンスがあった。ラ・カシータの主要な二人と共に3週間、各地域の食文化を貪欲に探る、非常に有意義な旅だった。後に知ることになるが、ある場所で奇跡的な逸話が生まれていた。それぞれの州の歴史を感じながら、市場、定食屋、タコス屋、レストランを訪ねる中で見つけた「MI CASITA」(私の小さな家)の名。それはオアハカの街の一角にあるレストランだった。当然、親近感を抱いて入店し、たくさんの料理を注文した。全部ではなかったが、チラキレス(揚げたトルティージャをトマトソースで煮たもの)、鶏のモーレソース(伝統的な唐辛子ソースに絡めたもの)が、私の調理の味に似通っていたのである。嬉しくなって、「店主に会いたい。」とお願いしたら、大柄なSR.MIGUELが顔を見せてくれた。名刺を出して、日本でこの店をやっている、味も近いと告げると、
驚いた様子で「本当かよ!」と握手を求めてきた。その夜は彼とメキシコ料理の奥深さを語り合い、充実した時間が過ぎていった。それから10年後の話である。8年間居た教え子が転職を機にメキシコを訪ねるので、私の師匠の店、年や地方の美味しい場所を伝え、送り出した。各地を回り帰国後、「オアハカの例の店、行ってきました。」と渡されたShop Cardには「La Casita」、そして、店名の下部には小さな文字で、「Antes Mi Casita」(以前のミ・カシータ)と記されていた。
第122章 恵比寿の読売カルチャーのメキシコ料理教室から
2009年の10月の頃だった。一人で来店した男性客から、「全部美味しいです、感動しました。」と話しかけられた。年の頃なら40歳手前くらいの彼は、シェフの本も購入してチャレンジしていますが、中々上手くできません。少しお話を聞きたいと興味津々の様子だった。難しく書いたつもりはなかったが、唐辛子類を焼く、揚げる、炒める等の最適の状態を見極めるには、私と共に調理しないと、やはり読むだけでは把握できない主旨の説明をした。恵比寿の読売カルチャーで毎月教えているので、「来ますか?」と誘ってみたところ、「有難うございます、伺います!」と危機として店を後にした。翌月、教室に顔を見せた彼は、調理工程だけでなく、食材が持つ特性、メニューの時代的背景、地域性等の講義を真剣な表情で聞き入っていた。教室の度に夜は奥様と共に店で食事を楽しむ彼が、ある日、口にした言葉には驚いた。「実は僕、JR静岡の駅近くで長くメキシコ料理屋をやっています。先生の料理に出会ってから、自分のスタイルはアメリカなのだと気付きました。是非、シェフの味を習得して提供したいと考えています。如何でしょうか?」何と毎月新幹線で通っていたのである。この申し出には私のほうが感銘を受けた。その夜は徹底的に伝授する方向で約束は固まり、これからのメキシコ料理に掛ける強い思いを、如何に顧客を啓蒙し、対応して行くかで話題は盛り上がった。
教室は本来、調理はデモンストレーションだけで良いのだが、トルティージャの生地だけは手が覚えないとダメなので、毎回、彼ともう一名を指名して一緒に練ることにした。硬粒種のとうもろこし粉の隅にいる消石灰に、少量の水を与え、粉全域にその成分が拡散するまで一切水分を加えない。ただ、ひたすら手を動かし、かき混ぜてゆく。すると食材が持つ良い香りがまい始め、段々と全身が香りに包まれるような状況が生まれてくる。ここから少しずつ水を足しながら細かい粒を作り、更に水分を加えると、それらが寄り集まるようになる。ここからが練りに移行する瞬間である。練り上がった生地はしっとりとしなやかで光沢を放っている。最初は戸惑っていた彼も、1年を過ぎる辺りにはしっかりとできるようになっていた。トルティージャを完全克服した後も通い詰める中、14年間、営業した静岡の店を閉じてしまう快挙に出た。友人がやっている六本木のタコス専門店で、しばらくトルティージャとサルサの類を指導しながら経営実務、業者対応を学んでいた彼も、ようやく踏ん切りがついたのか、先日、「もう一度、静岡で出直します。」と挨拶に訪れた。新しく厨房を備えて、「先生の味を基盤に、美味しい皿を提供します。」と、晴れ晴れとした表情で決意と夢を語ってくれた。彼の名は「坂田晋也」、5年の長期にわたって教室に通ってくれた優等生である。健闘を祈るばかりである。
第123章 イタリアンの俊才「神戸勝彦氏」に寄せて
2019年、3月中旬、突然の訃報が入って来た。「料理の鉄人」で対決した神戸勝彦氏の死である。伝え聞くところに寄ると、高所で仕込み中に転落したとのこと。余りの衝撃に声を失い、しばらく呆然としていた。この20年、彼が恵比寿に店(MASSA)を構えてからは、お互いが訪ね合う機会が増えていた。私が予約を入れると燃えるのか、定番のコースだけでなく、即興で幾つかの皿を調理してその実力を示してくる。「パスタのプリンス」と異名を取っただけに、その表現は多彩の極みで、特に和野菜類を絡めたそれらは、食材の個性を見事に引き出していて感服した覚えが何度もある。最後にお逢いしたのは、渋谷の有名ホテルで19年ぶりに開催された「料理の鉄人、同窓会」であった。これまでの歴代の鉄人、100名を超える挑戦者、番組スタッフ達が揃う会場は熱気に包まれていた。鉄人達が自慢の料理を持ち寄り、陳さんのご子息が得意のメニュー類を振舞う宴は豪華で贅沢な時間だった。これだけの料理人が集うのは稀なこと、彼方此方で談議に華が咲いていた。全員で記念写真を撮り終えた帰り際、近寄って来た神戸さんは「さっき二人で撮ったツーショット、ラ・カシータに展示してある対決当時の写真の横に並べてほしい。あの頃は20代後半、もう、こんなに歳を取っちゃった。」と笑っていた。あの時のはにかんだ素敵な笑顔が今も忘れられない。
思い返せば、この番組の審査員達はとても厳しく、時には辛辣な批評を口にしていて、とても恐い思いを感じていた。毎週のように見ていたが。判定の試食の際には双方に緊張が漂う雰囲気があった。各審査員の持ち点は20点、内訳は盛り付けが5点、創造性が5点、そして、味が10点である。辛口の審査員の評価は毎週、13〜15点が大半を占めていた。いざ、自分が戦いの現場に立った時、心に命じたことがある。
前者の2つは1点ずつ負けても、味は負けたくない、全身全霊で立ち向かう覚悟で勝負に臨んだ。終了1分前に6品を完成させた直後のインタビューで、「鉄人には勝ちましたか?」の質問に、「相手の調理は見えなかったので解りませんが、マンゴーには勝ちました。」と答えたコメントが素晴らしいと、しばらく店の顧客達の話題となったのを覚えている。結果発表で私の判定は18点、なんと神戸さんは20点!後にフジテレビから出版された「料理の鉄人、大全」の中で、「自分の料理で一番出来が良かったマンゴー対決が印象深い。」と語っている。「MASSA」の開店祝いで伺った折、渡辺さんとの闘いが一番熱く燃えたと吐露してくれた。お互い、食材に向き合う姿勢に共感を覚えていたのかもしれない。享年49歳、奇しくも私が対決した時の歳である。まだまだこれからの調理人生があったはず、イタリアンの俊才、「神戸勝彦」、残念無念だが、ご冥福を祈るばかり。
第124章 ラ・カシータの看板メニューはあの時の感動の味
「もう、本国へ行くしかない。」そう心に決めたのは1973年、春の頃だった。特に当てがあった訳ではないので、周りの友人達は心底心配してくれた。ガイドブックもない時代、情報は米国の映画やTVドラマに登場するメキシコ人の姿だった。映像に映る彼等は皆、貧しく、トルティージャを齧りながら、粗末な惣菜を食べていた。また、衝動に背中を押されて、その地へ旅立つ行動に、呆れてもいた。現在(いま)でこそ、与えられた役割だと理解しているが、当時は未来の展望どころか、明日さえ見えていなかった。頼りはメキシコ大使館で得た20軒程の飲食店リストだけだが、仕事に就けなくても、取り敢えず本物の味を確認したかったのである。神戸の店ではトルティージャは缶詰、調理はチリ・パウダーを多用していた。そこで遭遇したメキシコ人達は店の料理を全否定し、口々に自国の料理の素晴らしさ、美味しさを力説したのである。いったい何が違うのか、体験することに意義があった。羽田空港を飛び立った飛行機の機内で、メキシコの情景をイメージしていた。小さな村があって、サボテンが周りに乱立、麦わら帽をかぶった村人がテキーラを片手に座っている。そんな風景を思い描いていたその頃の自分を思い出すと、いまさらながらに恥ずかしくなる。機はカナダ、バンクーバーを経由して、メキシコシティ空港(現在はペニーとフアレス空港)へ一路、向かった。
入国手続きを終え、外に出て見た光景には驚愕の一言だった。高層ビルが立ち並ぶ街には高速道路、地下鉄が整備された大都市なのである。想像を遥かに超えていた。時は1974年初頭、20歳代半ばの私はカルチャーショックを受けていた。翌日、中心街で初めて口にした料理は感動の嵐だった。とうもろこしの香りと旨味、程よい甘味のトマトソースに漂う微かな唐辛子の後味、盛り込まれた鶏肉、風味豊かなチーズの絶妙なバランス、トッピングのオニオンのシャキシャキ感、まさに絶品だった。その時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。その名はCHLAQULES(チラキレス)、残ったトルティージャを4等分に切り、ラードで上げたものをボイルした鶏肉、チーズと共にランチェラソース(優しいチレ味のトマトソース)で煮込んだものだが、メキシコ全土に根付いている伝統惣菜である。日本食に例えるなら雑炊だろうか、残ったご飯を出汁と具材で煮る形態が、食材は違えども共通しているのである。澱粉がアルファ化した炊きたての白米の美味しさが、焼きたてのトルティージャに匹敵するとすれば、お冷ご飯はベータ化した旨味の代物。冷めた残りのトルティージャの調理例としては妙案である。長きに渡る私のメキシコ調理人生はこのチラキレスとの出会いを起点として歩き始めたのである。その後、この料理にも様々なアレンジがあるのを知ることになるが、あの時の感動の味を忠実に再現した店のそれは、多くの顧客を魅了し、ラ・カシータの看板メニューとして定着している。
第125章 コック服がオレンジになった理由 (わけ)
メキシコ伝統料理の名店「CABALLO BAYO」の厨房では沢山の婦人達が要の部署を任されていた。鶏や肉、海鮮のブイヨンを摂り献立のスープを調理、トルティージャを手焼きして焼きたてを提供する姿は自信に満ち溢れていた。和食に例えると、旨い飯を炊き、昆布や鰹節のだし汁をひいて汁物を作る板場の仕事。昭和の時代の料亭では有り得ない光景だった。考えてみれば、メキシコで数千年に亘り培われてきた食文化は、全て、母親達の役目だった。メタテ(METATE)と呼ばれる火山石で作られた石臼に茹でたとうもろこし粒を置き、マノ(MANO)と呼ばれる石棒で押し潰すように練り込んでゆく作業は、重労働だが現在も各地に受け継がれている。当時(1974年)、わが国での「厨房は男で仕切るもの」とされた私の社会通念は見事に覆されていた。また、常識に捕らわれず、伝統料理の本質を追い求め、本来のクオリティを実現する配役に感動すら覚えていた。この出来事がきっかけとなり、日本の料理人達が持っている慣習や決め事に疑問が生じ始めてゆく。果ては趣味、服装、社会的立場等、様々な基準にまで思いを巡らせていた。ガブリエル料理長以下、にこやかに全員が一丸となって仕事に勤しむ状況は、上下関係の厳しい日本では考えられなかった。
帰国後、1976年夏、渋谷公園通りにラ・カシータを開業する際、コック服は真っ赤と決めていた。西洋料理界に於いてフレンチ以外はまともに認められていない時代、特にメキシコ料理は多大な偏見を持たれていた。情熱がほとばしる気持ちをぶつけるには赤が最適だった。白で同列に並んでは相手にならなかったのである。奇を衒うつもりは全くなかった、むしろ、白が基調とされている業界に挑戦したかったのである。美味しさが評判になる中、取材も増え、真っ赤な調理服も好評だった。ただ、12月も半ばを過ぎると、サンタクロースに間違えられたり、酔っ払いに「「おい、とんがらし!」と絡まれることもあった。代官山、旧山手通りに移る時に、赤に夢と希望を加えると「オレンジ」かなと勝手に解釈して作成したものが現在も続いている。スタッフ達も最初の頃は戸惑いもあったのか、買い物の度に照れていたが、妙なもので仕事が出来るようになってくると、オレンジ色が板に付く。あれから40年余、料理界には黒、水色、縦縞等の例外も増えては来たが、全国、未だにオレンジは採用されていない。料理人にとっては格闘技のものと同じ勝負服。毎日、袖を通す度に気合が入る。
第126章 黒木瞳が行く食の世界遺産メキシコ料理
2010年、ユネスコは初めて3つの国の食文化を無形文化遺産に取り上げた。フランス、地中海、そして、メキシコである。当初、日本のメディアはNHKがフランス料理だけを番組にしたくらいで、他の各局は話題にさえしなかった。無視同然である。知ってほしい事柄だけをつまみあげる報道姿勢に憤りを感じていた。テレビ東京のBS局、BS・JAPANのディレクターから世界遺産の番組を作成するので、メキシコ料理についてレクチャーをお願いしたいと連絡があったのは、1年後の秋の頃だった。嬉しかった、ようやく腰を上げてくれたことが。数日後、店を訪れた5人のスタッフ達、担当責任者のディレクターは「メキシコは、皆目わかりません。どこに焦点を絞っていいのか教えていただきたい。」とお手上げ状態だった。全体像を知ってもらおうと、日本の5.2倍のある国土の各地域に培われ、根付いた、6千年にも及ぶ食の軌跡から話し始めていた。個性豊かな唐辛子の類、香味野菜との妙味溢れる調和、独創性に満ちた調理法、そして、それらが一体となった素晴らしい味の成り立ち。話したいことは山ほどあった。興味深くノートを捕る彼等は真剣そのもので、講話の容は増し、気が付けば3時間の時が過ぎていた。ディレクターから注文があったのは、要のロケ地を3か所に決めたいとの要望だった。
訪墨する女優の黒木瞳さんの友人がいるメキシコシティは外せないとの事情なので、私の師匠の店、「CABALLO BAYO」とソカロの近くのラグニージャ市場を推奨した。後、2つは難しかったが、やはりメキシコ料理の代表格モーレの発祥の地、プエブラの名店「Fonda de Santa Clara」と七色の色彩を放つモーレの産地、オアハカに決めた。スペイン人の攻勢にも屈しなかった先住民の末裔達が守り通しているオアハカの味も体験してほしかった。番組のタイトルは「黒木瞳が行く食の世界遺産、メキシコ料理の源流を訪ねて」と聞かされた。ようやくメキシコ料理を真正面から捉えた取材がスタートする。しばらく逢っていない師匠のガブリエルに手紙を書こうと思った。勿論、カバージョの味は期待を裏切らないが、数千年もの伝統に刻まれたメキシコ食材を魅力と調理を思う存分見せつけてほしいと便箋に綴り、ディレクターに他渡していた。彼等も確かな手応えを感じたのか、自信を持った表情で「しっかりと撮影してきます。」と店を後にした。2012年2月13日の夜、放映された内容は満足のゆくものだった。驚いたのは、普段ダイニングの部屋には出ない師匠が、自ら伝統サルサの類を調理、解説してくれているシーンの連続場面である。師匠の優しさが充分に伝わってきて、手紙でお願いした言葉に応えてくれた友情には感謝この上ない思いだった。
第127章 それは神奈川大学学園祭から始まった・・・
1970年夏、渋谷公園通りに開業した折、時を同じくして神奈川大学に「西風会」が創立されていた。スペイン語を学ぶ中で多岐にわたってメキシコを探索し、纏め上げたい思いが募り、同校の淵上英二が立ち上げたサークルである。1年間、メキシコ、プエブラ自治大学での留学経験を持つ彼の指導力は群を抜いていた。凡そ20人の同好会員と共に当時の日本では未知なる世界の政治、経済、文化の実情を追い求め、レポートに仕上げて行く活動は、教授達も一目置いていた。後にメキシコ国立自治大学大学院でラテンアメリカ研究を専攻し、NHK中南米支局員として活躍して行くが、学生時代から探求心旺盛なその触覚は冴え渡っていた。彼が店に訪ねて来たのはオープンして2か月も経った頃だった。学園祭で本物のタコスを提供したいとの要望である。口頭で伝えて出来るものではないと告げると、学生ですから時間はあります、何でも手伝いますから教えてくださいと哀願された。その実直さが気持ちよく、翌週からほぼ毎日、彼と3名を教習することになる。トルティージャの生地の練り方、伸ばし、焼き方から、サルサ・メヒカーナを仕上げる手順と配分、具材の加熱等、修練しなければならない工程は大変だったと思うが、やっている事が楽しかったのか、皆、明るく、朗らかに日々が過ぎていった。彼等のおかげで店の人材は潤い、学園祭も盛況で上場の結果への運びとなった。
その後も交流は深まり、事ある度にボランティアで店の仕事に従事してくれる子達が増え、どの子もメキシコの食文化の話に興味津々で、幾人もが時を忘れて聞き入ってくれた。本校にも呼ばれてサークルで講義をする中、当時、副部長を務めていた男がラ・カシータへの就職を希望してきた。願ってもない出来事だった。スペイン語、英語に精通し、メキシコ滞在も経験している経歴はパートナーとして充分すぎる戦力だった。即、採用である。最初に着手してくれたのは、「ラ・カシータ操業マニュアル」の作成であった。予め準備しておく下拵え、仕込み、調理の手順、飲み物、料理の出し方、厨房、パントリー、洗い場における諸作業、それまで口頭で伝えていた現場指導の数々を全て手書きで店の手引きとして一冊に仕上げてくれた。料理名、スペイン語の知識も折り込まれ、流石、西風会で培った実力を目の当たりに見せてくれた。見事なものである。現場はその後、継承されて行く店の来歴の基礎となる貴重な記録として今も大切に保管してある。接客も丁寧で人当たりも良く、後輩にも慕われ、教育係として絶大な存在だった。店が今日あるのも、彼がいたからこそと、いまさらながらに受け止めている。ギターを愛し、憂歌団大好きだった彼は数年後、ブルースの心理を極めるためシカゴへ旅立って行った。帰国後、英語教師の職を経て、現在は現役のブルースシンガーとして活躍している。彼の名は林賢次郎、店の歴史に名を刻む男である。
第128章 テキーラのカクテル
メキシコの酒といえばテキーラ、ハリコス州の州都であるグァダラハラから約50q北西にあるテキーラ村で醸造、蒸留生産されているメスカル(竜舌蘭から作られる地酒)にその称号が与えられている。村の周りは原料であるアガペ・アスール(竜舌蘭の一種)の畑で囲まれ、沢山の造り酒屋が林立している。2006年にはアガペ畑の景観と伝統的なテキーラ工房が世界遺産に登録された。国を代表する酒だが、地元や観光地等を除いてはあまり一般的には飲まれていない。私達の日本酒と同じく存在は認識しているが、日常的にはやはりビールが好まれているのがメキシコの酒事情である。一昔前は日本でのテキーラのイメージは、その度数の強さから、まるで罰ゲームの酒さながらの位置付けだったが、近年、テキーラ協会が設立され、幾人ものテキーラ・ソムリエが養成されている現状が時代に変化をもたらせている。ショットで飲む場合はライムと塩と共にという飲み方が良く知られているが、通の方々はチェイサーにサングリータ(血液ちゃん)を注文してくる。トマトジュースに唐辛子味を付けたものだが、その真っ赤な色合いから上記の呼称が付いている。様々な作り方があるが、店のそれは、トマトジュースにフレッシュオレンジの果汁、香り高く、旨味のあるチレ(唐辛子)を入れ、刺激のあるチレをアクセントに加えている。常連客の評判も高く、テキーラを嗜む時の絶好の友である。
テキーラのカクテルはマルガリータが断トツにその名が知られている。1949年、ロサンゼルスで生まれたこのカクテルには悲しい逸話が残されている。考案者のバーテンダー、ジャン・デュレッサーが自信作として完成させた時、彼はメキシコ鵜あれの亡き恋人の名を付けたのである。若き日、共に狩りに出かけた折、流れ弾に当たって彼女は亡くなってしまった。忘れられない恋人の名の付いた当初のレシピはテキーラ45ml、ライムジュース30ml、レモンジュース30ml、ホワイトキュラソー(オレンジリキュール)7mlをバー・ブレンダ―でブレンドした、かなり酸味の強いカクテルだった。現在はテキーラ40ml、ライムジュース20ml、ホワイトキュラソー(又はコアントロー)20mlをシェイクするスタイルがカクテルブック(参考文献、西東社、柴田書店)に掲載されている。このカクテルも全米では人気があるが、本国「メキシコでは前例の場所を除いてはほぼ飲まれていない。旧山手通りにオープンした1978年、米国に対抗した訳ではないが、オリジナルを作ろうと意気込みに燃えていた。いくつかのテキーラ、ライムジュースを選び、配合を変え試行錯誤を繰り返した結果、門外不出のレシピが出来上がった。あれから40年余、リピーターは増え続け、何杯もおかわりしてくれる大ファンが何人もいる状況である。彼等の誉め言葉は日本一、少し照れくさいが、もっとも美味しさを追及するモチベーションは調理人としての使命だと感じている。
第129章 NHK「世界はほしいモノにあふれてる」
NHKからの調理依頼が舞い込んだのは、平成最後の年となる2019年の年始初頭だった。メキシコ現地ロケで撮影してきた献立類をスタジオで再現して貰いたいとの要望である。番組は「世界はほしいモノにあふれてる」。歌手のJUJUと俳優三浦春馬が司会を務めていて、誰もが良く知るレポートものだった。局が一番組通してメキシコの食文化を取り上げるのは久しぶりのこと、即断で引き受けることにした。現地へ赴いた女性ディレクターの話では、初めて口にしたChilaquiles(チラキレス)の味に感動したようで、これは外せないと、やや興奮気味に伝えてきた。後日、打ち合わせに訪れた彼女に、この料理の語源をレクチャーしていた。近代、メキシコ全土に根付いたおふくろの味と称されるチラキレスは、トルティージャをトマトと少量の唐辛子で煮込むもので、チーズや鶏肉などが加えられた形が一般的である。数千年間、培われてきた食の来歴の中で、チラキレスは チレ(chile)とケリーテ(quelite)の言葉で構成されている。チレは青唐辛子、ケリーテはアカザ科の食用若葉である。古代は煮込みの中に自生の葉を加えただけの素朴なものだった。日本でも水菜や明日葉、紫蘇、三つ葉等、葉を食する習慣は残っているが、メキシコはメルカード(市場)に出向くと、山積みでエパソテ(アリタソウ)、ケリーテ、アボカドの葉などが売られている。
収録当日、NHKの厨房で懐かしい出会いがあった。「今日の料理」、「朝イチ」の出演時の調理アシスタント担当だった婦人達が歓声を上げて迎えてくれたのである。「先生!今日は何を作るんですか?」と口々に聞いてくるので、用意した食材を披露すると、「食べたい、食べたい!」ともう大騒ぎの様である。アボカドディップのワカモーレ、食用サボテンと豚肉をチレ・ウァヒージョのサルサで絡めた具材のタコス、トマトとチレ・ハラペーニョ入りのメキシカン・スクランブルエッグ、食用サボテンをラードで調理した付け合わせ付きの牛フィレ肉のステーキとりフライド・ビーンズ、焼きたてのトルティージャ、そして勿論、チラキレス等、本番に向けて調理の準備を始めると、5人全員が諸手を挙げて手伝ってくれた。おかげで収録はスムーズに進み、スタジオでは司会者二人が舌鼓を打ちながら料理を口に運ぶ様子が、メキシコ料理の美味しさを充分に伝えていた。本番終了後、下がってくる残り物を待ち詫びていた厨房に「物撮りはありません。」と朗報がもたらされた。撮りが無くなったので、食材が余る事態となったのである。持ち帰るのも手間だし、折角だからと全て調理して、皆に振舞う結末に大喜びの婦人達。戻って来たディレクター達も加わり、十数人の試食が始まった。卓に並んだ数々の皿に、美味しい!美味しい!の連発である。料理人冥利に尽きる言葉の響きに包まれながらいると、彼女が「渡辺さん、チラキレス、現地より美味しい!」と一言。嬉しかった。
第130章 鳥肌がたつほどの思わぬ出来事
近年、全国にメキシコ料理を提供する店舗が増えてきている。2011年にメキシコ大使館がリサーチした折には350店舗ほどだったが、おそらく400店舗を超えているだろう。嬉しい限りである。唯、イタリアンに比べるとまだまだ過少の現状を鑑みると、料理の地域性や歴史的時代背景が世間一般に浸透するには、これから約30年〜50年の時を要するのではないだろうか。しかし、前進していることには間違いなく、先行きが楽しみではある。2018年、1月に所用で神戸に帰った際、思わぬ出来事に遭遇した。小学校からの朋友が食事に誘ってくれた地元の名店で、美味しく串揚げを頂いていた時のことである。阪神電鉄、深江駅に近いその店は案内でもないと、まず行かない場所である。カウンター越しに見える主人の包丁捌き、手際の良さ、そして見事な仕上がりに、思わず、「僕も料理をやっているんですよ!」と話しかけていた。メキシコ料理なんですけどと続けると、彼は「この近くにもあったんですよ。」と返してきた。どんな献立を調理していたのか興味がわき尋ねてみると、スマホを取り出し、美味しかった皿は写真に残してありますと見せてくれた。感心した、ワカモーレ、チラキレス、メキシカン・スクランブルエッグ、トルティージャに目玉焼きを乗せ、トマトソースで絡めた、ウェボス・ランチェロス、牛ステーキのタコス等、全て美味しさが伝わる出来映えであった。トルティージャも生地を練って伸ばして焼いていたと聞いてはもう他人事ではない。
ジョギング中に異変が起こり、2015年の11月1日、46歳の若さで亡くなった彼、いったいメキシコのどこで修業したのか、聞いてみると意外な答えが返って来た。何でも、日本に初めて本格的なメキシコ料理を伝えた人の本を熟読して、調理に励んでいたとの返答には鳥肌が立った。名刺を渡して立場を打ち明けると、主人は驚いて、「ええ〜、レジェンドですか〜」とお互いびっくりである。店は2002年に始めたらしく、ちょうどその年の2月に最初の専門書を刊行していた。これは僕の聖書だと、常日頃言っていましたよと聞かされては感涙である。ホームページが残っていると検索してくれた当時のメニュー写真を見せられて、また、感動である。海老のにんにく炒めに施されている食材の下拵え、リフライド・ビーンズの質感と色合い、タンピコステーキの肉の開き方、表面の焼き具合、ケサディージャ、エンチラーダスの仕上がり、どれをとっても調理工程をしっかり把握した一皿、一皿である。事細やかに解説した調理の細微な部分を見事に理解してくれていた。生存してくれていれば、逢って、もっと色々な技術、知識を伝授したかった。メキシコ料理に目覚めたきっかけは、新婚旅行がメキシコだったそうで、後日、奥様に逢うことができ。すごく渡辺さんに尊敬の念を抱いていましたと聞かされた。店名は「Fetish」、彼の名は「大杉柾樹」、逢いたかった男である。
第131章 オリジナル作品集
飲食業における「賄い」の言葉には人々の心をひきつける響きがある。その美味しさをキャッチコピーにした求人誌の情報や、TBSの「チューボーですよ!」では若手の技量、センスを図るコーナーが企画されたり、名シェフ達が一堂に会して何冊もの本が刊行されてもいる。余りものや安価な食材を購入して如何に美味しく仕上げるかは、その調理人に与えられたチャンスでもあり、実力を発揮して評価を得られれば、本人の自信に繋がってゆく。我が店でも私を含めて、歴代のスタッフ達が工夫を凝らした品が継承されて来た。鶏のチリソースやかに風味の蒲鉾を使った天津丼、残り物の赤ワインを利用したスパゲッティ・ミートソース、牛脂を揉み込んだハンバーグ、ブラックペッパーを叩き潰し、豚ロース肉に思い切り塗して焼き、安いウィスキーでフランベしたペッパーステーキ、アボカドの果肉を練り、チレ・ハラペーニョをアクセントにしたタルタルソース、小海老、玉ねぎ、人参のかき揚げをご飯に乗せて天つゆをかけたものなど、挙げれば枚挙に暇がないが、仕事への活力を引き出す意味でも賄いは欠かせない食事である。メキシコ料理店なので、顧客達から、毎日店のメニューばかり食べていると思われがちだが、前述のように着想豊かな献立が揃っている。
実は、ラ・カシータには「まかない本」が存在する。格好つけて作成した訳ではない。切っ掛けはもう30年も昔になるが、私が有り合わせの材料で調理をすると、その美味しさを学びたくて、当時の厨房にいた子達がノートに書き記す出来事から始まった。レシピがあって調理したものではないだけに、彼等は感動してくれていた。目の前にある食材から浮かび上がってくる切り方、配合の分量、加熱の順序、味の仕上げは頭の中に残っている。彼等のためにワープロで記録を綴り、誰でも調理出来るようにファイルした調理法がいつの間にか増えていったのである。簡単で手早く旨い一品を作り上げるライブ感は料理人冥利に尽きる瞬間だったに違いない。例えば、大根卸し、ツナマヨ、なめ茸にかいわれ大根を散らしたスパゲッティ、うざくの鰻は高価なので、焼いたさんまの身をほぐした「さざく」、昆布で出汁を引き、豚バラ肉とキャベツを茹でた鍋をショウガ醤油で、八角、山椒を利かせた豚バラの角煮、鶏肉に焼き色を付け、合わせ調味料(酒、味醂、醤油、ザラメ、出汁汁)を絡めた雉子焼き、豚肉、もやし、ししとうを炒め合わせた焼きうどん、細切りにした豚肉をあんかけに調理して油通しした厚揚げにかけたもの、豆板醤風味の豚肉、ポテトの皿、まだまだ書き足りないがオリジナルな作品集として厨房の皆に重宝がられている。教え子達の中には、独立してから自分の店のメニューにツナスパやキャベツ鍋を提供した子もいるほど、それぞれの味には定評があるようだ。
第132章 代官山の風で干しました
私達の食卓に馴染みの深い干物といえば、鯵、鯖、鰯、シシャモ、ホッケ、サンマ等、海の幸が主流である。そのまま刺身、煮物、焼き物でも充分美味なのだが、一夜干しにすると熟成し、得も言われぬ絶妙な味に変貌する。陸の物では大根、イモ、柿などが良く知られている。出汁に使われる昆布や椎茸類、特にどんこと呼ばれる晩冬から初春にかけて採れる椎茸を乾燥させたのは最高級品である。メキシコも唐辛子類を乾燥させて出汁を取る習慣がプレ・イスパニカ(スペイン文化到達以前)の時代から根付いている。メキシコ中央高原ではこの時代から続いている意外な食習慣がある。何と肉類の乾燥干し出ある。総称、セシーナ(Cecina)と呼ばれるそれらは、牛、豚などの薄切り肉に塩を振り、天日にさらした独創性溢れる見事なものに仕上がっている。先住民の末裔が色濃く残るオアハカの近郊では、牛肉はタサホ(Tasajo)、オレアーダ(Oreada)、豚肉はセシーナと呼び分け、双方、そのまま焼いて調理しても美味だが、甘みのある唐辛子(チレ・アンチョ)のペーストやニンニクなどを擦りこんだ「セシーナ・エンチラーダ」は絶品である。その他の地域、チアパス州では鹿肉だったり、牛肉のロース部分を干し、酸味のあるオレンジの果汁に一晩漬けたもの、牛の骨髄を塗り付けたタサホ等味わい深いバリエーションが各地に継承されている。
本国にはさらにユニークな干し物が存在する。一晩干した骨付き豚ロースを数分間、樹脂の少ない木材の煙でいぶした、チュレタ・アウマーダ(Chuleta・Ahumada)である。メキシコの山々は年間を通して乾燥しているので、いつでも生産されていて、スーパーで手軽に購入できる人気商品である。保存食としての燻製とは異なり、充分に旨味を備えた身に香り付け程度の燻煙を施したそれは、焼くと香りだけでも美味しさが期待されるが、表皮はパリッと、内側はジューシーで、まるで高級ハムのような傑品に仕上がる。日本では11月下旬から2月いっぱいくらい、気温が13〜14度、湿度が40%以下の状況が仕込みに最適だ、毎年、店の恒例となっている。一日、何枚かしか干せないので、待ち望んでいる顧客達の予約でほぼ売り切れてしまう。X‘masの時期に作る若鶏の骨付きもも肉を開いて干した「ピルナ・デ・ポージョ・アワマーダ」も毎年、心待ちにしている方々も数多くいる。わが国の干物も山地が変われば味わいも違ってくる。メキシコを含め、北海道、沼津、熱海、長崎等、それぞれのロケーションの風や気候「状況が育成するそれらの持味は、その地の風量が漂うような味を感じさせてくれる。決して気障な意味合いではなく、前述の想いで顧客達には「代官山の風で干しました:と付け加えると「おしゃれね〜」と満面の笑みで喜んでもらえる。
第133章 メキシコ料理本とバイオリニスト黒沼ユリ子さん
主婦の友社から料理本作成の依頼が舞い込んだのは、1993年の春も過ぎようとしていた頃だった。夏に向けて異国情緒満載のレシピ本に仕上げたいと、編集者は意気込みを語ってくれた。「エスニック風おかず」の書名で企画された内容は、タイ、ベトナム、インドネシア、中東、そして、メキシコの5人がそれぞれの持味を披露できる本格的な専門書を目指していた。前菜、スープ、軽食、肉、魚介、卵、野菜、デザーに至るまでの調理法、何よりも嬉しかったのは、主食のトルティージャの調理工程、独創性溢れる唐辛子類の解説も盛り込まれていた。共著ではあったが、一冊でここまで広く発表できるのは初めての経験だった。回を重ねて打ち合わせが進む中、慣れない原稿執筆も何とか熟し、撮影の段階に入った頃には3カ月の時を要していた。用意されたお洒落な食器に盛り付けた献立類は彩りも良く、期待は膨らむ一方だった。8月下旬、出版されたフルカラーA4版、120アイテムのそれは評判を呼び、後に文庫本として長期に渡り支持されてゆく。そして現在はワカモーレやタコス等が同社の食材辞典に掲載されている。今、想えば10年先に自書を刊行する機会のリハーサルをやらせてもらえたのかもしれない。余談だが「エスニック」の単語は、店の顧客だった美術評論家の故宮本智子女史が、1979年に「ニューヨーク人間図鑑」の著書で初めて紹介した言葉である。
「渡辺さん、私もメキシコ料理の本、書いたわよ。」と黒沼さんが訪ねて来たのは1996年の初頭の頃だった。世界的なバイオリニスト黒沼ユリ子さんは、旧山手通りの店からの常連である。「メキシコのわが家へようこそ」と題された素敵な本のページには、手作りの沢山のメニューが、所狭しと埋め尽くされていた。30年以上、メキシコで暮らしている彼女にとって、食べ慣れた個性豊かな品々を調理するのはお手のもの、見事にどの皿もメキシコ色に染まっていた。メキシコシティから車で1時間、郊外に建てられたご自宅は土と木、タイルを駆使した独創的な家。その外壁、室内はオレンジ、黄色、ブルー、赤、グリーン、うす紫色のペンキが塗られ、家具はメキシコ製、料理を彩る食器は素焼きである。料理と調和したその景色からは、本国独自の明るい日差しとゆったりとした時間の流れが漂うように伝わって来る。私にとって宝物の一冊である。2012年、4月に旭日小綬章を受賞された折、それを祝う会がラ・カシータで行われた。高校音楽科の同級生達30人を前にして黒沼さんの最初の一言には驚いた。「皆様、今生のお別れでございます、本日は楽しい時間を過ごしましょう!」悪い冗談である。帰り際、手渡された旦那様のCD2枚は今も大切にしている。現在はメキシコに縁りがある千葉県の御宿に住まわれて、時折、コンサートをやられている。いつまでもお元気で!
第134章 メスカルに魅せられた男
プレ・イスパニカ(スペイン文化到達以前)に古来からメキシコに根付いていた酒、ブルケは、テキーラの原料でもあるアガベ(竜舌蘭)の一種から造られている。アガベ・アトロビレンと称される一番大きな類で、その樹液を大桶で7日〜14日間発酵させた物がPulque(プルケ)である。語源はナワトル語のOctli poliuhqui(オクトリ・ポリウキ)、腐敗または変質した発酵酒の意だが、鼻を近づけると正に腐ったような臭いがする。少し泡立ちのある乳状で、とろとろ、ぬるぬるしている。現在でも製造されていて、特に中央高原地帯の農民達は仕事の疲れを癒す酒として愛好者が多く、村の酒場(プルケリア)で音楽を聴き、カードや噂話を楽しみながら嗜んでいる。最近では大きめの陶器やガラス容器で提供するところが増えてきたが、アココテと呼ばれるヒョウタンから創られる伝統的な器で提供する店もまだ残っていて、その消費量は本国で飲まれる総アルコール量の4分の1を占めると言われている。スペイン人到来の時代、彼等には好みでなかったようで他の種類のアガベからもっと度数の高い蒸留酒が造られるようになった。それがMezcal(メスカル)である。数多くの地域で製造されているが、オアハカ市南方のマタトランで造られるそれらの評価が最も高く、テキーラよりも青くさい香りと味が特徴で、中にはマゲイに巣喰う虫入りもある。
そのメスカルに魅せられた男がいる。彼とはもう40年以上の付き合いになるが、最初の切っ掛けはメキシコのビールに興味を持ち、テカテやカルタブランカ等を日本に持ち込んでくれたのである。丁度、1978年、旧山手通りに開業する折で、正に店の救世主、絶好のタイミングだった。まだ、コロナビールが知られて行く20年も前の時代である。その後、テキーラを輸入する会社(ソルグランデ)を立ち上げ、直接、現地の小規模な製造元を訪ねて良品を発掘する手腕は見事なものであった。大メーカーの大量生産の物とは違い、丁寧に手作りされたそれらに店の顧客達は心底、喜んでいた。2008年、日本にテキーラ協会が設立された頃だった。突然、メスカル専門に移行して行くのである。オアハカで一家が有機栽培しているアガベで造られた純粋、無垢なメスカルに出会い、その格調高い品質に惚れ込んでしまった。幕張などで行われる食品店で紹介して行く内に、三浦半島にメスカルバーを創設する。店の名はLa cuenta(お会計)、何ともユニークな命名である。フロンティア精神豊かなところが似ているのか、同志のような存在である。彼が選んでくれたメスカルは評判も良く、リピーターも徐々に増えている。未知なる分野の開拓に邁進する彼の名は、朝倉久(ひさし)メキシコを何度も行き交う中で、風貌もメキシコ人と間違える姿となり、最近ではパンチョ朝倉と呼ばれている。喜ばしいことに私が署名した推薦状が幸いしたのか、本国から日本メスカル大使に選ばれた。
第135章 魅力的なフードコーディネーターのカリスマ
2017年の春、突然、フードコートコーディネーターのカリスマ、結城さんが訪ねて来た。メキシコ在住のスペイン語通訳を紹介してほしいとの用件だった。世界一のレストランとの呼び声が高い、デンマークの革新的な店「ノーマ」がこの夏に期間限定で芸術的なタコスを披露する店舗をメキシコ市に開催する。招待を受けたので、頼りはあなたしかないと懇願された。誉れある事態である。幸い、以前メキシコ料理講習を依頼されたメキシコ大使館商務部、一等書記官の知人に連絡を取り、事はスムーズに進む運びとなった。これほどメキシコ文化が意識されるのは、やはり、2010年にユネスコが世界無形文化遺産に登録した事実が大きいと考えられる。後日、現地は赴いたシェフの話では「伝統的なトルティージャに美味しさを追及した子豚のロースと等の具材は斬新で、世界中のグルマンを唸らせた。」とコメントしている。このイベントの影響は多大で、最近は我が国でも、新しいタコスを考案する店が増えてきた。実際、フォアグラや雉鮎を駆使したものも提供されており、近未来は和、洋、中の垣根を超えて贅沢三昧のタコスが世界中に溢れ出すと思われる。メキシコ本国でも、この10年、盛り付けや調味にフレンチを意識した調理法が料理界に現れ、注目を浴びている。料理人として表現するなら「より美味しく」の姿勢は、私も同様で、これからの成り行きが楽しみである。
結城さんとの出会いは1999年の「料理の鉄人」に出演した折だった。収録後のスタジオで番組で提供した品々を試食していた彼女から声がかかった。「渡辺さん、全部美味しいわよ!」と、期待以上のメキシカンの味に感動している様子だった。一目置いてくれたのか、それから調理指導の依頼が何度か来る事態となる。フジテレビ、「SMAPxSMAP」のゲスト達(宇多田ヒカル、宇津井健、水谷豊 敬称略)がメキシカンを要望する毎に電話があったが、残念ながら3回とも地方出張や料理教室と収録日が重なり、お手伝いできなかった。TOKIOが進行する番組「メントレ」も担当していて、宇津井さん、小手川裕子さんに呼ばれた時は、「今日は期待してるわよ。」と優しく微笑んでくれた。その折、頂いたニューヨークで目にした緑と赤の唐辛子図鑑の情報は有り難く、早速購入した。現在も原稿の検証に役立っており、大切にしている。印象深かったのは、2018年、2月に渋谷の某ホテルで催された「料理の鉄人同窓会」に出席した折、120人以上の凄腕料理人が集う中に私を見つけると、駆け寄ってきて「あの時は有り難う!」と冒頭のメキシコ市のイベントでの報告を、立板に水の如く話された出来事である。誰かの役に立てる事がこんなに素敵なことかと、心から嬉しかった。業界の頂点に立ち番組に心血を注ぐその姿はあまりにも魅力的、その名は「結城摂子」才女である。
第136章 岡江久美子さんを偲んで
衝撃のニュースに我が耳を疑った2020年4月23日の午後である。TVは「岡江久美子さん急死」と伝えていた。まさか?何故?報道を耳にしながらも、俄かに信じることができなかった。暫く呆然とする中、様々な思いが身体を駆け巡っていた。初めてお会いしたのは確か1980年の夏の頃だった。代官山、旧山手通りの店に獏さんと二人で食事に来られて、帰り際「美味しいわね〜本当に。」とあの素敵な笑顔で語りかけていただいたのが、まるで昨日の出来事のように印象深く心に残っている。それから毎月、獏さんと仲睦ましく来店され、結婚後も来られていたが、夫婦というよりは爽やかな恋人同士という感じだった。アボカドディップのワカモーレ、チーズを包み揚げたケサディージャ、海老のにんにく炒めが大のお気に入りで、笑顔を絶やさず、お互い見つめ合いながら食事に没頭していた情景を思い出す。各界の著名な方々が何人も来られている時代だったが、岡江さんと獏さんのいつも明るく、気さくで気取らない様に、こんな芸能人がいるのかと意外に思ったのを覚えている。1987年に現在の場所に移転するお知らせもできぬまま、しばらく空白期があったが、思わぬことで縁(えにし)が復活する機会に恵まれた。それは2000年の夏頃、TBSの朝の人気番組「はなまるマーケット」の若手シェフのランチバトルにスタッフが選ばれたのである。
僅か10分で美味しい一品を仕上げるこの企画は、当時人気を博していた。生放送の緊張感をほぐす想いで彼が選んだのは、日頃作り慣れているワカモーレ、岡江さんが大好きだったメニューである。「お久しぶりです、覚えていらっしゃいますか?今日は店のシェフをよろしくお願いします。」の内容で手紙をしたため、当日、局に向かう彼に手渡していた。本番が始まった。手際よく調理を進める彼の横で、微笑みながら「昔はこの店によく行ったのよ。」と懐かしむ様子は20代の自分に戻っているようだった。ボイルしたソーセージをワカモーレと共にレタスで巻いた献立は岡江さん、薬丸君、試食した全員から大絶賛の声が上がった。そして、その後、他のコーナーに番組は進行したが、エンディングの曲が流れる中、皆、余韻に浸るように「今日のワカモーレは本当に美味しかったね。」と口々にそのクォリティを語ってくれた。しばらくして、早見優ちゃんを連れて店を訪れ、これとこれが美味しいのよと薦める表情には、美食を愛する先輩としての誇りが溢れていた。TV朝日の「ポカポカ地球家族」の収録時、進行役の岡江さんは合間を見ては、出演者だけでなく、スタッフ達にもラ・カシータの美味しさを吹聴してくれた。本当に心根の優しい人だった。最後にお逢いしたのは昨年の夏、厨房の私に「久しぶり〜!」と大声で両手を挙げて、手を振りながらの来店だった。今日は美味しい物、いっぱい食べるからねとはしゃいでいた笑顔が忘れられない。コロナが憎い、合掌!
第137章 ラ・カシータの名物デザート
若い頃はコーヒーが苦手だった。育った家庭環境の中で紅茶が主だった訳もあるが、昭和の時代、神戸の喫茶店やレストランで提供されていた商品は濃くて、とても苦かった覚えがある。当時は1ドルが360円、輸入物は全て高額で、一杯の値段はアルバイトの時給とほぼ変わらず、高嶺の花でもあった。好みが一変したのはメキシコでの修行の折だった。水道事情が良くないこの国では仕事中、生水は口にせず専ら飲み物は暖かいコーヒーだけだった。朝、出勤すると厨房では大きな寸胴鍋に沸かせた湯の中へ、叩き潰した豆を放り込み、煮出したものが常に側にあった。いかにもやり大胆で荒っぽいやり方には驚いたが、ミルクも砂糖も入れず、丁度私の日本茶のように皆飲んでいた。最初は戸惑ったが、しばらくすると身体が馴染んだのか、とても美味しく感じるようになっていた。帰国してからは習慣付いてこの数十年、毎日1リットル〜2リットル浴びるように飲んでいるが、肝臓も胃腸も健康である。因みに本国にはアイスコーヒーは存在しない。日本でも近大はペットボトルの冷たいお茶が主流になっているが、その昔は冷めた茶(麦茶以外)として、失礼にあたるものだった。最近訪墨していないので解らないが、ひょっとしたらメキシコも現代は生活様式が変わっているかもしれない。
中南米には、ブラジル、コロンビア、グァテマラ等、コーヒー豆を産出する有数の国々があるが、メキシコもその一つである。ただ残念なことに良いものは米国とヨーロッパに買い占められて日本にはなかなか入って来なかった。1996年の春だった。救世主が現れる。Mコーヒーがメキシコの名産地ハラパの畑を買取り、良質の豆を販売出来るようになった」と訪ねて来たのである。代表が店のファンで、是非、ラ・カシータさんで使って頂きたいとのお願いだった。それまでの業者には申し訳なかったが、この話に乗らない手は無い。フレンチ・ローストに焙煎されたこの豆の香り、苦み、渋み、仄かな甘みは申し分なく、とても満足のゆくものだった。店の料理との相性も良く、顧客達に愛好者が増えていったのは言うまでもない。メキシコには世界に類を見ない独創的なコーヒーがある。Cafe´ de Olla(カフェ・デ・オージャ)と呼ばれるそれは、古来から飲まれていて、Olla(土鍋の意)に煮出したコーヒーの中には、オレンジの皮、シナモンスティック、黒砂糖が入っている。畑仕事の合間の休憩時の飲み物で、労働の後の疲れを癒す効果があるとされている。今ではメキシコ全土の飲食店で、デザートコーヒーとして最もポピュラーな存在となっている。2002年の夏の頃、店のオリジナル・デザートを模索していて、これをゼリーにしてみたら面白いと考えた。オレンジとシナモンの香りを付けたコーヒーをゼラチンで固めて冷やし、上に黒砂糖の蜜を流し、仕上げに生クリームで彩ると、えもいわれぬ絶品が出来上がった。Cenote(セノーテ)と名付けたこのデザートは、常連客に徐々に気に入られ、今やラ・カシータの名物となっている。
第138章 メキシコのアヒージョとスペインのアヒージョ〜山本寛斎氏を偲んで〜
偉大な星が消滅してしまった。2020年7月21日、山本寛斎氏逝去の報道、私の心の中は大きな喪失感に被われていた。長年に亘り、ラ・カシータをこよなく愛して頂いた顧客の一人である。日本が世界に誇るファッションデザイナーの既成概念に捕らわれない奇抜な出で立ちは、来店の度にその存在感を示していた。いつも元気で明るく、楽しく、食事の時間を過ごされる中、近況を話されていた。昨年の秋だったか、「先週はずっと北極にいたよ。」と聞かされた折には、すごい行動力だなと感心したものである。20年くらい前の頃のことだと記憶しているが、メキシコの食文化の話になり、本国の食材が世界に寄与した多大な部分、独創性豊かな先住民の食生活、個性あふれる献立の妙味等、日本のメキシコ料理に対する認識が浅いので、啓蒙しなければと力説していると、私がメキシコ料理の未来に果敢に挑戦する姿勢に共感されたのか「素晴らしい!いや、素晴らしい!」と大きな声で称賛されたこともあった。ある時は、「メキシコ料理いいね、深いね、代官山でメキシカンの店をやろうかな。」と冗談ぽく話されて、「競合店になるかもね?」と悪戯っ子のように笑っておられた。お気に入りのメニューは若鶏の唐辛子風味(Pollo Al Ajillo)ポージョ・アル・アヒージョと発音するが、スペインのアヒージョとは異なると説明すると、興味津々に身を乗り出された。
スペイン語でニンニクをAjoと言うが、Ajilloと半化すると「ニンニクを使ったもの」の意味になる。「何に?」という対象が要の部分だが、スペイン料理の基本はオリーブ油、解りきっている事実は了解されている。私達のおにぎりやお茶漬けが「ご飯の」と注釈しなくても良いのと同じである。1521年、スペイン人達が上陸する以前、プレ・イスパニカの時代は数千年に亘り、先住民の食文化があり、言語はナワトル語だった。唐辛子はChilli(チルリ)とAji(アヒ)と呼ばれ、前者は食用、後者は薬用だった。彼等と交流が深まる中、ニンニクに出会い、Ajoの言葉を知る。メキシコの食用油は、ひまわりなどの植物油。Ajilloの響きに触発され、それまでの唐辛子を使った調理法にニンニクが加わることとなる。使われる唐辛子は昆布に類似した出汁が出るPasilla(パスィージャ)かGuajillo(ウァヒージョ)。食材の融合によってメキシコ独自の一皿が生み出されたのである。近代はスペインのアヒージョにも唐辛子が入ったものもあるが、前述の唐辛子が持つ、香りや旨味、風味には到底及ばない。「面白い!」と寛斎さんは納得し、そして、この料理に心を奪われ、虜となって行った。印象的に覚えているのは、「また、食べたい、今行くから。」と電話があり、「何分後ですか?」と聞いてみると、「今、札幌空港、とにかく席を押さえてね。」の答え。何ともせっかちで無邪気な人柄である。常に前向きだった寛斎さん、心よりご冥福を!
第139章 TORTA(トルタ)
昭和30年代前半、小学生の頃だった。神戸三宮の洋食店で親と共に食事をした際、注文した玉子サンドに新発見があった。それは現在ではどこでも見かける、粗微塵に切った茹で玉子をマヨネーズで和えて挟んだものだった。斬新だった。その頃の喫茶店ではマヨネーズを塗った薄切りの食パンに熱々の玉子焼きを挟むのが通例だったからである。関西のそのスタイルは今でも変わらない。推測するに、恐らくタルタルソースの調理から閃いた逆転の発想であろう。子供心に感動を覚えた記憶がある。友人に振舞っていた。現況、料理を生業としている自分を振り返ると、この頃から素地があったのかもしれない。明治時代、パンが普及し、サンドイッチが世間に知られるようになり、当初はハム、玉子、野菜、フルーツ等が主流だったが、段々と多様性を増し、ビーフカツ、ツナ、ポテトサラダ、コールスロー、納豆にまで至る。紡錘形の惣菜コッペパンでは焼きそばやナポリタン、ハンバーグ、コロッケなどの具材も枚挙に暇がないほどである。何でも良いと言う訳ではないが、やはり、日本人が誘惑される食材が如実に現れている。ここ数年、わが国ではメキシコ料理店が雨後の筍の如く出現しているが、サンドイッチの足跡を辿れば、未来のタコスの具材の妙味が見えてくるはずである。
世界の国々にはそれぞれのパン事情があるが、メキシコでは庶民に親しまれているのがボリージョ(Bolillo)と呼ばれているコッペパン。学生食堂やファミリーレストランでは、これを横半分に切り、バターとフリホーレス(煮豆)を塗り、チーズを乗せて溶かしたモジェッテス(Molletes)が定番である。さらにこれに揚げたトルティージャをトマトで煮込んだチラキレス(Chilaquiles)を乗せたテコロテス(Tecolotes)や横割りにしたボリージョを油で揚げ、鶏肉や生野菜を挟んだパン・バソ(Pan・Vaso)も人気がある。最も大衆に普及しているサンドイッチの代表格はトルタ(Torta)であろう。テレラ(Telera)と名付けられた楕円形のパンに、鉄板で調理した腸詰めと玉子の炒め物、ハムと目玉焼き、ソーセージ入りのスクランブルエッグ、豚肉のパン粉焼き等の具材を挟んだものである。食感が好みなのか、驚いたことにパンの柔らかい部分を手で掻き出して挟み込む。日本だと客に叱られそうである。アボカドをスライスした果肉と、アクセントにチレハラペーニョの酢漬けを乗せた味わいには他に追随を許さない絶妙さがある。アレンジとしてジューシーな辛いトマトソースに漬け込んだトルタ・アオガーダは本国第2の都市、グァダラハラでは、あまりにも有名である。修業時代、1個40円くらいのトルタは常に空腹を満たしてくれた。
第140章 メキシコの鯛料理
西の太平洋と夏のメキシコ湾、二つの大海に恵まれたメキシコには私達の想像を優に超える海の幸の料理が存在する。その中で最も良く知られているのはHuachinango ala Veracruzana(ワチナンゴ・アラ・ベラクルサーナ)だろうか。この皿はスペイン統治の拠点となった東の港街ベラクルスで生まれたもので、尾頭付の鯛が躍動的に調理されている。トマトを主にしたソースにはワイン、オリーブ油、オリーブの実、オレガノ、ケッパー等、スペイン色の強い食材が使われているのが特徴で、メキシコ原産のトマト、唐辛子との融合は見事な味わいを醸し出している。日本と同じく鯛は高級品で、贅沢な一品として国内のレストランでは提供されている。我が国ではお正月や祝い事に使われるが、そこまでの思い入れはないようである。潮流に揉まれて育った日本の真鯛は険しい目をして威厳がある風格が漂うが、ワチナンゴは環境が穏やかなのか、その愛くるしい姿に好感が持てるのが面白い。おめで鯛、ありが鯛と古くから日本では縁起の良い魚と珍重されており、食材図鑑によると正真正銘のタイ科のタイは黒鯛や血鯛等13種で、石鯛や姫鯛、雀鯛など、タイを名乗る魚は150種を超えるらしく、それらは「あやかり鯛」と呼ばれているそうだ。メキシコにもMojarra(モハラ)という名の鯛がいるが、姿形も味も別物である。
小学館発行の週刊誌、「週間ポスト」から取材依頼が入ったのは1988年の夏の頃だった。巻末のカラーページ見開きの「男の料理」は当時、料理人憧れの企画もので、嬉しく感じたのを良く覚えている。後日、担当者との打ち合わせで、「メキシコに魚料理はありますか?」と尋ねてきたので、数えきれないほどありますよと答え、真鯛を使いたいと要望した。半信半疑の様子だったので、詳しく海鮮料理事情を説明すると、信じられないほど興奮して、早速編集部に報告しますと、足早に帰って行った。連絡が来たのは次の週、撮影は駒沢にある料理写真家の巨匠、佐伯義勝氏のスタジオで行われる次第になった。何と編集局長同行である。些か大げさに感じたが、スタジオを拝見して納得がいった。屋内にはプロ仕様の厨房が完備されていたのである。食材も器、大皿も全て用意されていた。ソースを仕込む時間は無かったので、調理は「真鯛のニンニク揚げ」に決めていた。大御所の存在に少し緊張していたのか、仕上げの段階でニンニクに心持ち、熱が入りすぎてしまった。自分しか気づいていないが、後悔が残ったまま、撮影は進行した。無音の部屋にシャッター音が響く。無意識に身体が行動を起こしていた。「先生、もう一度、作らせてください。」驚いた編集長が「君!先生に何を!」と声を荒げた。幸運なことに完ぺきを求める巨匠は理解してくれたのか、「いいよ、もう一度調理して。」と許可が下りた。帰りの車の中で「君は勇気があるね〜。」と編集長は感心しきりだった。
第141章 「マキナ」
古代から伝承されてきたメキシコの主食トルティージャは、MAIZ(マイス)と呼ばれる硬粒種のとうもろこしから作られる。一般に普及している黄色くて甘いCORNとは別物で、粒は数倍大きく、甘くはない。通常、消石灰を加えた水で加熱し、一晩置いたものを石臼や機械等ですり潰す。練られた生地はMASA(マサ)と呼ばれ、これを薄く伸ばして焼かれたものがトルティージャである。カルシウム(アルカリ性)の成分が消化を助け、エネルギー食としては抜群の代物である。ちょうど、私達の日の丸弁当(米と梅干し)に匹敵すると考えられる。薄く伸ばすやり方として、その昔はアボカドの葉で挟み、手で押さえつけるか、両の手の平で叩いたりしていたが、いつの頃からか厚めの木の板2枚を蝶番で留め、右側に軸棒を取り付け、てこの原理で上から圧力を加えられる道具が考案された。これだとそんなに力まずに、より薄く伸ばすことができる。木製だけでなく、アルミニウムや鉄製の鋳物も売られている。プレス機はPRENSA(プレンサ)という言葉があるのだが、まず使われてなく、MAQUINA DE TORTILLA(トルティージャの機械)と命名された所以か、通称「マキナ」と呼ばれている。わが国にSEWING MACHINE(裁縫機械)が出現した頃、マシーンが一人歩きして「ミシン」となったのと同じ流れである。
1976年7月、公園通りに創業した頃は持ち帰ったアルミのマキナで伸ばしていたが、使いづらさを感じていた。1978年2月の代官山旧山の手通りのOPENを機に自分で作ろうと考え、各種材木を選びながら試していた。柳は弱く、桜、檜やぶなは香りが邪魔をする。行き着いた結果、樫の組木が最適と判明した。どんぐりの親であるこの木は堅く丈夫で、一般にはテーブル等に使われている。大きめに切り揃えた、3cmの厚みの板2枚の左側を蝶番で留め、棚板に使うL字金具2個に太めのピアノ線で軸棒を固定して完成したかに思われたが、一抹の不安が過っていた。上板に軸棒が斜め上から圧力を掛ける時、左端の蝶番に余分な圧力がかかってしまう。どうしたもんかと思った時、軸棒にぶら下がりの部品を加えて真上から押さえつける画期的なアイデアが閃いた。完ぺきだった。周りのスタッフ達からは祝福の拍手が起きていた。こうして誕生した何台ものラ・カシータオリジナルのマキナは歴代の教え子達に受け継がれ、独立して行った彼等の財産となっている。現代はネットで簡単に幾つものメキシコ製が購入できるが、不便な時代だったからこその手造りが、それからの店の繁栄を支えるチームワークの原動力となっている。最近はメキシコ料理店が増えてきている中、美味しいトルティージャを提供するためには「マキナ」は必需品、次世代の各表現者達に期待したいものである
第142章 ベストライブを尽くして・・・
ここ数年、会計時に「お店、随分長いですよね。」と様々なお客様から声をかけられる。気が付けば1976年の創設以来、44年の歳月がラ・カシータには流れていた。正直なところ、私自身にその実感が無いのである。物事を振り返らない性分でもあるが、その日のベストライブを尽くせば明日が来るとの想いで、これまで歩き続けて来た。少々、気障に聞こえるかもしれないが、前しか見ないと年月の観念を意識しない心境になっている。顧客達の側にも通じていて、それぞれにその日の美味しさを味わう時間を満喫する状況で日々が過ぎて行く。つまり、ノスタルジーがないのである。何十年も通っていたら思い出話に花が咲くのが通例であるが、ラ・カシータにはほぼ無い。偉そうに言うつもりは無いが、客に媚びることない対応は、お互いの目線を同一にする最良の結果だと確信している。コロナを機に苦慮の対応が渦巻いているが、有り難いことに昭和、平成、令和とぶれない姿勢が気持ち良いと称賛してくれるお客様が多い。自粛規制の現状の中、せめて美味しい食事で元気になりたい、だからこの店に来た。こんな声を聞く機会が最近増えてきた。改めて彼等に心から感謝である。食の表現者としてお客様を裏切らない、当たり前だがこの言葉を胸に邁進する想いである。
「ベストを尽くす」、これを体現してくれたのが、1967年当時、神戸で3本の指に入るレストラン「PALL MALL」の西山料理長である。学生時代の私に料理人としての将来を気付かせてくれた恩人でもある。その技量は、たびたび行われる神戸異人館でのパーティにも駆り出されるほどの腕前で定評があった。得意としていたのは仔牛の骨や筋で摂るフォン・ド・ヴォーをベースに玉ねぎ、人参、ローレル等を加えて作るエスパニョールソース、トマトを足したドゥミ・グラスである。これで調理した牛タン・シチュー、牛テイル・シチューは右に出る者がいない程の味わいで、他の追随を許さない拘りの逸品だった。神戸牛の品質を見極める目、カニ・クリーム・コロッケに使うベシャメルソースのクォリティーの高さ、どれをとっても顧客達が誘惑される存在感があった。厳しい人だったが、閉店後は愛嬌もありよく鼻歌交じりで仕事の片づけをしていた。一番好きな曲は何ですか?と尋ねたことがある。即座に答えが返って来た。「哀愁の街に霧が降る」、山田真二(昭和31年)の大ヒット曲である。料理の世界に入った頃、よく癒されたとの思い出話を聞いたので、伴奏しましょうかと持ち掛けてみた。カラオケも無い時代、「出来るの?」と嬉しそうに期待された。その頃、ギターは手慣れていたので、後日、気持ちよく伴奏させていただいた。その後店は閉店し、西山さんとも音信不通で消息も解らなくなった。5年ほど前、所用で神戸に帰った折、PALL MALLがあった近くの店で食事をしていた時のこと、「西山さん、どうしてるかな?」と思いだしていた。その時、有線から山田真二のあの曲が流れてきたのである。鳥肌が立った。霊魂は信じていないが、私より一回り以上年上だった西山さん、この時ばかりは心が複雑だった。
第143章 料理人生の良きパートナー
1976年7月、渋谷公園通りにラ・カシータを創設した頃、まるで時を合わせたかのように、慶應義塾大学ラテンアメリカ研究会が設立されていた。部長を担う森下君の家庭は岡山で祖父の代から中南米諸国との船舶貨物業を営む恵まれた環境、前年の1975年には地元の日生に森下美術館が開館していた。北はメキシコから南はボリビアまでの11か国で出土した作品2200点を収蔵する国内では稀な存在だったが、当時はあまり話題にのぼらなかった。奮起した彼は、もっと中南米を知ってもらおうと活動を始めたと、その頃、私の店を訪れては熱く語っていた。世間のメキシコに対する認識不足を補いたい私の主張に賛同、料理の味に感動してくれた当初からの付き合いは現在も続いている。因みに結婚式の披露宴も店を選んでくれ、約50人が大いに盛り上がった出来事も懐かしい思い出である。事が大きく動いたのは2005年、彼が理事長に就任したのを機に、中南米美術館と名を改め、3日間に及ぶイベントを開催した。マヤ、アステカ、インカの研究者、歴史学者、音楽家、美術の大家を招聘、その報道は地元だけでなく、全国のメディアが取り上げられるほどだった。私もめきしこの食文化を語る料理講習を依頼され、1日3回、計9回の調理実習を務めさせていただいた。
この頃はイタリアンが大ブーム、メキシカンの本当の美味しさを世間に知らしめたい彼は、ある行動に打って出る。「店の味をレトルト食品で販売、日本の食卓に活用できないか?」との発案であった。料理教室ではそのように授業を行ってきた私には嬉しい限りで、何の異論もなかった。すぐさま、企画を作成、地元の食品業者をラ・カシータに招待し、味に堪能してもらい、試作が始まった。約半年かけて繰り返された試作の味は、ほぼ完璧に仕上がっていた。豆腐、ハンバーグ、パスタ等、身近な食材に手軽に活用できる3種のサルサは好評だった。幕張で行われる食品イベント、「フ―デックス」にブースも準備され、いよいよの時だった。業者から販売価格が600円〜800円の通達が知らされた。コロナ禍の時節、800円〜1000円を超えるカレーやパスタソースが売れ行き好調の今ならいざ知らず、当時は200円代が主流、とても強気で、販売とは行かなかった。良くできた商品だっただけに、また、いつかチャレンジ出来たらと願っている。昨年(2019年)の秋には美術館の催しで1000年前のマヤ文明の料理を披露したいので調理してほしいとの依頼、題材は「タマレス」。とうもろこしの生地に具材を加え、その葉で包み、地面に穴を掘り、竜舌蘭の葉で覆い、熱した一品である。時代考証の末、選んだ具材は「鹿と猪」。調理した私も楽しかったが、味見した彼は至極ご満悦だった。還暦半ばだが、学生時代のまま行動力に溢れる森下矢須之、料理人生の良きパートナーである。
第144章 店の思い出深いファンの面々
1978年2月、代官山手通り、ヒルサイドテラスの真向かいに店を構えることができた現実は余りにも恵まれ過ぎていた。幸運どころの話ではない、これまでの私の人生を振り返ると、周到に準備された脚本がすでに出来上がっていたのではないかと思わざるを得ない。店を一軒家風に設計してくれた、渋谷公園通りにいた頃からの友人。イス、テーブル、看板の手造りを手伝ってくれた当時の従順なスタッフ達。そしてラ・カシータを贔屓にしてくれた、音楽、舞台、映画、服飾、芸術の世界で活躍する一流アーティスト達。何もかもが非の打ち所がない舞台が整って、今日まで時が刻まれてきた。当時からお互いを干渉せず、それぞれが個(孤)で向き合える環境が代官山のロケーションだった。斜向かいの奥にKings Homesの名の高級マンションがあった。そこの住民の方々も店のファンが多く、中でも毎週のように食事に来られる家族がいた。旦那様がイギリス人、奥様は日本人、子供が3人、計5人でいつも来店、子供達はビーフタコス、ケサディージャ、海老のにんにく炒め、メキシカンライスが大好物、日曜日の午後のひと時をゆったり満喫していた。予約は常に奥様からギャンブルの名で入るので、顔と名前は知っていたが、相手を詮索しない質なのでそれ以上は知らなかった。20年ほどして彼がイギリスの本社に戻る話を聞いている時、思わぬ事実を知る。何と勤めは大手証券会社。それで名前が「ギャンブル」とは、正に言い得て妙である。
旧山手通りは大使館もあり、駐車に関しては鉢山交番もうるさく言わなかった。それぞれがカスタムメードした10数台のハーレーが訪れた日は壮観だった。テラスの前はまるで展示場、道行く人々は一様に見入っていた。印象深い男がいた。その群れに属さずいつも大型ハーレーで一人で来店。身なりは黒い革ジャン(夏でも)にサングラス、身体は厳つく、グラスを外したその顔は目つきも鋭く強面だった。只者ではない、そう感じたが意外に口調は優しく、「ほんと、美味しいね。」と店が気に入っている様子だった。後に知ることになるが、原宿で4軒ものレストランを経営する実力者だった。その中の一軒「クロコダイル」は伝説のライブ・レストランとなる。社会から逸れた若者達に音楽の世界を気付かせ、個の生き方を導いたこの店から巣立った多くのロックバンドは、武道館を満杯にするスーパースター達に成長していった。故内田裕也さん、故安岡力也さん達は彼を「おやじさん」と慕い、未だ現役のトップミュージシャン達も同様であった。一回り以上年上だったが、来店の度に私の行き様を誉めてくれ、ある時はすがる様に「サルサのレシピを教えて。」とせがまれたこともあった。1999年に病気で亡くなるまで通い詰めてくれた彼、竹下通り、表参道に裏社会を介入させなかった兵の名は村上元一(通称ゲンさん)。顧客の中でも鮮烈に覚えている男だ。
〜FIN〜 京都外国語大学 校友会の皆様へ
ホームページに連載のお話しを頂いた当時は、10章くらいで完結する予定で原稿を書いておりました。
半分を過ぎたあたりから先輩達から「面白いからもっと書いてもらえ!」とのお声掛かりと森田様のご好意で毎月書かせて貰えるようになり、気が付いたら12年もの歳月が過ぎていました。
まだまだ書きたい逸話は沢山あるのですが、コロナ禍の中での閉鎖、誠に淋しい限りです。先輩達に留まらず、大勢の後輩達が原稿を読んで店を訪ねてくれました。
こんなに愛読して頂けたこと、今更ながらに心から感謝、感謝です。就学当時、学生運動のセクト達が学校を占拠、ロックアウトとなって半年間授業はありませんでした。その間のアルバイトで料理に気付き、習得したスペイン語が引き金となってメキシコに渡り、類い稀な食文化に出会う。導かれるように東京で店を構え、45年もの時が流れて行くとは全くユニークな人生だと思います。
振り返れば、全てが必然でした。親から頂いた掛け替えの無い命、一度の人生を精一杯自分に向き合ってこれからも生きて行きたいと考えています。
人生の多彩な機微に触れる機会を与えて頂いた「ザ・連載」の執筆は私にとって毎月楽しみでとても貴重な時間でした。
ご愛読、本当にありがとうございました。
そして、森田様、お疲れ様!心よりお礼申し上げます。お元気で!
これからは、店のホームページに寄稿しようと考えています。
代官山 ラ・カシータ 渡辺庸生