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第120章 偶然の味に感謝の念

 メキシコでのコメの位置付けは五穀(米、麦、粟、豆、玉蜀黍)などの類として扱われている。従って我が国のように主食ではなく、料理の付け合わせやスープの具材にされる場合が多い。メキシコシティから170km南西の街、タコス周辺からメキシコ湾岸に沿った地域で、主にインディカ種が作られている。勿論、ジャポニカ種も食べられているが、長くて水分と粘り気の少ないインディカ米が好みのようだ。ユニークなのはその調理法、生米を加熱したたっぷりの植物油の中で泳がせて糠の癖を捕るのである。イタリア料理のリゾットだとバターやオリーブ油で軽く炒めるくらいだが、何とも大胆なやり方である。油を切った後、絞ったトマトとライムジュースで人参、ズッキーニ、青豌豆などの具材と共に調理されるのが一般的だが、白く仕上げる場合は玉ねぎやにんにくと共に水で加熱する。メキシコで米料理はSopa de Arroz(米のスープ)、もしくは、Sopa Seca(乾いたスープ)と呼ばれ、スープを充分に吸わせた野菜料理として捉えられている。定食屋では液状のスープと共に提供されており、肉や魚の皿に添えられて、おかずのように食べられている。一流レストランだと顧客は富裕層が多いせいか、アレンジで海老や鶏肉等が加えられ、贅沢な一品の付け合わせとして調理される場合もある。在墨時、地方を巡っていた頃、ある店では香味野菜の風味豊かな白飯に揚げたバナナが乗っていた。その取り合わせの妙味に感動したのを覚えている。

 代官山、旧山手通りのオープンに向けて準備を進めている時期、最大限の美味しさを求めてジャポニカ種のブランド米を使うことに決めていた。主食が米の日本では味覚が繊細で、安物だと客達失望させるのではないかと考えていた。この選択が後に思いもよらない効果を生むとは仕込み当日まで、まだ知る由もなかった。前日、水洗いした米を半日干し、次の日、調理工程を経て、オーブンから出した時だった。何と、ほぼ全量の米粒が半分割れているのである。品質が良すぎて芯がないのが理由だった。失敗だがもう一度50人分を仕込み直す時間は無かった。そのまま提供すると、開店記念に訪れた招待客の皆は口々に「何!この弾ける食感、美味しい!初めての味!」と絶賛の嵐である。こんな幸運が待ち受けていようとは夢にも思わなかった。その時以来、このメキシカンライスのファンは増え続け、失敗作のまま、40年仕込んでいる。何が幸いするか解らないが、オリジナリティ溢れる一品は顧客達の間で自慢の種として語り継がれる事態に発展していった。相乗効果に恵まれたのはこれだけでは無かった。米を加熱した油を海老や鶏、牛、豚等の献立の炒め油に使用したところ、良質の米の旨味、香りを持ち備えた最高の油に変身していた。偶然とはいえ、店の味を確立できた状況を鑑みると、持って生まれた何かが支配しているとしか思えない。与えられた結果に、日々感謝の念である。

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第121章 奇跡的なご縁

 現在の場所で再出発の目処が立ったのは1986年の始めだった。ビルの図面はできていたが、オーナーと設計者にお願いをして一部をテラスに変更、壁は一面をガラス張り、床は増築をして厨房の面積を確保し、更に、裏口の外には屋外冷蔵庫の設置、倉庫対応の設備、更衣室、トイレ等、願い事の限りを尽くしていた。を振り返ればよくぞ強引な店子の要求を聞き入れてくれたものだ。おまけにビルの命名までさせてもらった事実は、その時の私は余程、自分勝手に燃えていたのだなと、自身でも呆れ返る。時はバブル景気の真っ只中、世の中は贅沢に浮かれていたが、メキシコ料理再現の為に資金を全て店に投入する姿に、高梨大家は感銘を受けてくれていた。何度か共に食事をする中でメキシコの食文化を熱く語る私に影響されたのか、「自分も飲食の店をやりたくなった。」と心境に変化が訪れていた。イタリアが好きな彼は、ラ・カシータのオープンと同時に「カターニャ」の名で1階に開業する運びとなる。有能なシェフを雇い、中々美味しい店だったのを思い出す。隣で八百屋を続けながら運営をしたが、数年で疲れたのか、いつの間にか物販テナントに貸すようになったのは残念だった。根が優しい彼は仕事柄、野菜に詳しく、事ある度に色々教えてくれた。2014年に旅立ってしまうのだが、店の現在があるのは、大いなる理解を示してくれたスタート時だと感じている。

 以前、第24章でも触れたが、店の内装工事が進む段階でメキシコ本国を巡るチャンスがあった。ラ・カシータの主要な二人と共に3週間、各地域の食文化を貪欲に探る、非常に有意義な旅だった。後に知ることになるが、ある場所で奇跡的な逸話が生まれていた。それぞれの州の歴史を感じながら、市場、定食屋、タコス屋、レストランを訪ねる中で見つけた「MI CASITA」(私の小さな家)の名。それはオアハカの街の一角にあるレストランだった。当然、親近感を抱いて入店し、たくさんの料理を注文した。全部ではなかったが、チラキレス(揚げたトルティージャをトマトソースで煮たもの)、鶏のモーレソース(伝統的な唐辛子ソースに絡めたもの)が、私の調理の味に似通っていたのである。嬉しくなって、「店主に会いたい。」とお願いしたら、大柄なSR.MIGUELが顔を見せてくれた。名刺を出して、日本でこの店をやっている、味も近いと告げると、 驚いた様子で「本当かよ!」と握手を求めてきた。その夜は彼とメキシコ料理の奥深さを語り合い、充実した時間が過ぎていった。それから10年後の話である。8年間居た教え子が転職を機にメキシコを訪ねるので、私の師匠の店、年や地方の美味しい場所を伝え、送り出した。各地を回り帰国後、「オアハカの例の店、行ってきました。」と渡されたShop Cardには「La Casita」、そして、店名の下部には小さな文字で、「Antes Mi Casita」(以前のミ・カシータ)と記されていた。

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第122章 恵比寿の読売カルチャーのメキシコ料理教室から

 2009年の10月の頃だった。一人で来店した男性客から、「全部美味しいです、感動しました。」と話しかけられた。年の頃なら40歳手前くらいの彼は、シェフの本も購入してチャレンジしていますが、中々上手くできません。少しお話を聞きたいと興味津々の様子だった。難しく書いたつもりはなかったが、唐辛子類を焼く、揚げる、炒める等の最適の状態を見極めるには、私と共に調理しないと、やはり読むだけでは把握できない主旨の説明をした。恵比寿の読売カルチャーで毎月教えているので、「来ますか?」と誘ってみたところ、「有難うございます、伺います!」と危機として店を後にした。翌月、教室に顔を見せた彼は、調理工程だけでなく、食材が持つ特性、メニューの時代的背景、地域性等の講義を真剣な表情で聞き入っていた。教室の度に夜は奥様と共に店で食事を楽しむ彼が、ある日、口にした言葉には驚いた。「実は僕、JR静岡の駅近くで長くメキシコ料理屋をやっています。先生の料理に出会ってから、自分のスタイルはアメリカなのだと気付きました。是非、シェフの味を習得して提供したいと考えています。如何でしょうか?」何と毎月新幹線で通っていたのである。この申し出には私のほうが感銘を受けた。その夜は徹底的に伝授する方向で約束は固まり、これからのメキシコ料理に掛ける強い思いを、如何に顧客を啓蒙し、対応して行くかで話題は盛り上がった。

 教室は本来、調理はデモンストレーションだけで良いのだが、トルティージャの生地だけは手が覚えないとダメなので、毎回、彼ともう一名を指名して一緒に練ることにした。硬粒種のとうもろこし粉の隅にいる消石灰に、少量の水を与え、粉全域にその成分が拡散するまで一切水分を加えない。ただ、ひたすら手を動かし、かき混ぜてゆく。すると食材が持つ良い香りがまい始め、段々と全身が香りに包まれるような状況が生まれてくる。ここから少しずつ水を足しながら細かい粒を作り、更に水分を加えると、それらが寄り集まるようになる。ここからが練りに移行する瞬間である。練り上がった生地はしっとりとしなやかで光沢を放っている。最初は戸惑っていた彼も、1年を過ぎる辺りにはしっかりとできるようになっていた。トルティージャを完全克服した後も通い詰める中、14年間、営業した静岡の店を閉じてしまう快挙に出た。友人がやっている六本木のタコス専門店で、しばらくトルティージャとサルサの類を指導しながら経営実務、業者対応を学んでいた彼も、ようやく踏ん切りがついたのか、先日、「もう一度、静岡で出直します。」と挨拶に訪れた。新しく厨房を備えて、「先生の味を基盤に、美味しい皿を提供します。」と、晴れ晴れとした表情で決意と夢を語ってくれた。彼の名は「坂田晋也」、5年の長期にわたって教室に通ってくれた優等生である。健闘を祈るばかりである。

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第123章 イタリアンの俊才「神戸勝彦氏」に寄せて 

 2019年、3月中旬、突然の訃報が入って来た。「料理の鉄人」で対決した神戸勝彦氏の死である。伝え聞くところに寄ると、高所で仕込み中に転落したとのこと。余りの衝撃に声を失い、しばらく呆然としていた。この20年、彼が恵比寿に店(MASSA)を構えてからは、お互いが訪ね合う機会が増えていた。私が予約を入れると燃えるのか、定番のコースだけでなく、即興で幾つかの皿を調理してその実力を示してくる。「パスタのプリンス」と異名を取っただけに、その表現は多彩の極みで、特に和野菜類を絡めたそれらは、食材の個性を見事に引き出していて感服した覚えが何度もある。最後にお逢いしたのは、渋谷の有名ホテルで19年ぶりに開催された「料理の鉄人、同窓会」であった。これまでの歴代の鉄人、100名を超える挑戦者、番組スタッフ達が揃う会場は熱気に包まれていた。鉄人達が自慢の料理を持ち寄り、陳さんのご子息が得意のメニュー類を振舞う宴は豪華で贅沢な時間だった。これだけの料理人が集うのは稀なこと、彼方此方で談議に華が咲いていた。全員で記念写真を撮り終えた帰り際、近寄って来た神戸さんは「さっき二人で撮ったツーショット、ラ・カシータに展示してある対決当時の写真の横に並べてほしい。あの頃は20代後半、もう、こんなに歳を取っちゃった。」と笑っていた。あの時のはにかんだ素敵な笑顔が今も忘れられない。

 思い返せば、この番組の審査員達はとても厳しく、時には辛辣な批評を口にしていて、とても恐い思いを感じていた。毎週のように見ていたが。判定の試食の際には双方に緊張が漂う雰囲気があった。各審査員の持ち点は20点、内訳は盛り付けが5点、創造性が5点、そして、味が10点である。辛口の審査員の評価は毎週、13〜15点が大半を占めていた。いざ、自分が戦いの現場に立った時、心に命じたことがある。 前者の2つは1点ずつ負けても、味は負けたくない、全身全霊で立ち向かう覚悟で勝負に臨んだ。終了1分前に6品を完成させた直後のインタビューで、「鉄人には勝ちましたか?」の質問に、「相手の調理は見えなかったので解りませんが、マンゴーには勝ちました。」と答えたコメントが素晴らしいと、しばらく店の顧客達の話題となったのを覚えている。結果発表で私の判定は18点、なんと神戸さんは20点!後にフジテレビから出版された「料理の鉄人、大全」の中で、「自分の料理で一番出来が良かったマンゴー対決が印象深い。」と語っている。「MASSA」の開店祝いで伺った折、渡辺さんとの闘いが一番熱く燃えたと吐露してくれた。お互い、食材に向き合う姿勢に共感を覚えていたのかもしれない。享年49歳、奇しくも私が対決した時の歳である。まだまだこれからの調理人生があったはず、イタリアンの俊才、「神戸勝彦」、残念無念だが、ご冥福を祈るばかり。

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第124章 ラ・カシータの看板メニューはあの時の感動の味 

 「もう、本国へ行くしかない。」そう心に決めたのは1973年、春の頃だった。特に当てがあった訳ではないので、周りの友人達は心底心配してくれた。ガイドブックもない時代、情報は米国の映画やTVドラマに登場するメキシコ人の姿だった。映像に映る彼等は皆、貧しく、トルティージャを齧りながら、粗末な惣菜を食べていた。また、衝動に背中を押されて、その地へ旅立つ行動に、呆れてもいた。現在(いま)でこそ、与えられた役割だと理解しているが、当時は未来の展望どころか、明日さえ見えていなかった。頼りはメキシコ大使館で得た20軒程の飲食店リストだけだが、仕事に就けなくても、取り敢えず本物の味を確認したかったのである。神戸の店ではトルティージャは缶詰、調理はチリ・パウダーを多用していた。そこで遭遇したメキシコ人達は店の料理を全否定し、口々に自国の料理の素晴らしさ、美味しさを力説したのである。いったい何が違うのか、体験することに意義があった。羽田空港を飛び立った飛行機の機内で、メキシコの情景をイメージしていた。小さな村があって、サボテンが周りに乱立、麦わら帽をかぶった村人がテキーラを片手に座っている。そんな風景を思い描いていたその頃の自分を思い出すと、いまさらながらに恥ずかしくなる。機はカナダ、バンクーバーを経由して、メキシコシティ空港(現在はペニーとフアレス空港)へ一路、向かった。

 入国手続きを終え、外に出て見た光景には驚愕の一言だった。高層ビルが立ち並ぶ街には高速道路、地下鉄が整備された大都市なのである。想像を遥かに超えていた。時は1974年初頭、20歳代半ばの私はカルチャーショックを受けていた。翌日、中心街で初めて口にした料理は感動の嵐だった。とうもろこしの香りと旨味、程よい甘味のトマトソースに漂う微かな唐辛子の後味、盛り込まれた鶏肉、風味豊かなチーズの絶妙なバランス、トッピングのオニオンのシャキシャキ感、まさに絶品だった。その時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。その名はCHLAQULES(チラキレス)、残ったトルティージャを4等分に切り、ラードで上げたものをボイルした鶏肉、チーズと共にランチェラソース(優しいチレ味のトマトソース)で煮込んだものだが、メキシコ全土に根付いている伝統惣菜である。日本食に例えるなら雑炊だろうか、残ったご飯を出汁と具材で煮る形態が、食材は違えども共通しているのである。澱粉がアルファ化した炊きたての白米の美味しさが、焼きたてのトルティージャに匹敵するとすれば、お冷ご飯はベータ化した旨味の代物。冷めた残りのトルティージャの調理例としては妙案である。長きに渡る私のメキシコ調理人生はこのチラキレスとの出会いを起点として歩き始めたのである。その後、この料理にも様々なアレンジがあるのを知ることになるが、あの時の感動の味を忠実に再現した店のそれは、多くの顧客を魅了し、ラ・カシータの看板メニューとして定着している。

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第125章 コック服がオレンジになった理由 (わけ)

 メキシコ伝統料理の名店「CABALLO BAYO」の厨房では沢山の婦人達が要の部署を任されていた。鶏や肉、海鮮のブイヨンを摂り献立のスープを調理、トルティージャを手焼きして焼きたてを提供する姿は自信に満ち溢れていた。和食に例えると、旨い飯を炊き、昆布や鰹節のだし汁をひいて汁物を作る板場の仕事。昭和の時代の料亭では有り得ない光景だった。考えてみれば、メキシコで数千年に亘り培われてきた食文化は、全て、母親達の役目だった。メタテ(METATE)と呼ばれる火山石で作られた石臼に茹でたとうもろこし粒を置き、マノ(MANO)と呼ばれる石棒で押し潰すように練り込んでゆく作業は、重労働だが現在も各地に受け継がれている。当時(1974年)、わが国での「厨房は男で仕切るもの」とされた私の社会通念は見事に覆されていた。また、常識に捕らわれず、伝統料理の本質を追い求め、本来のクオリティを実現する配役に感動すら覚えていた。この出来事がきっかけとなり、日本の料理人達が持っている慣習や決め事に疑問が生じ始めてゆく。果ては趣味、服装、社会的立場等、様々な基準にまで思いを巡らせていた。ガブリエル料理長以下、にこやかに全員が一丸となって仕事に勤しむ状況は、上下関係の厳しい日本では考えられなかった。  帰国後、1976年夏、渋谷公園通りにラ・カシータを開業する際、コック服は真っ赤と決めていた。西洋料理界に於いてフレンチ以外はまともに認められていない時代、特にメキシコ料理は多大な偏見を持たれていた。情熱がほとばしる気持ちをぶつけるには赤が最適だった。白で同列に並んでは相手にならなかったのである。奇を衒うつもりは全くなかった、むしろ、白が基調とされている業界に挑戦したかったのである。美味しさが評判になる中、取材も増え、真っ赤な調理服も好評だった。ただ、12月も半ばを過ぎると、サンタクロースに間違えられたり、酔っ払いに「「おい、とんがらし!」と絡まれることもあった。代官山、旧山手通りに移る時に、赤に夢と希望を加えると「オレンジ」かなと勝手に解釈して作成したものが現在も続いている。スタッフ達も最初の頃は戸惑いもあったのか、買い物の度に照れていたが、妙なもので仕事が出来るようになってくると、オレンジ色が板に付く。あれから40年余、料理界には黒、水色、縦縞等の例外も増えては来たが、全国、未だにオレンジは採用されていない。料理人にとっては格闘技のものと同じ勝負服。毎日、袖を通す度に気合が入る。

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第126章 黒木瞳が行く食の世界遺産メキシコ料理

 2010年、ユネスコは初めて3つの国の食文化を無形文化遺産に取り上げた。フランス、地中海、そして、メキシコである。当初、日本のメディアはNHKがフランス料理だけを番組にしたくらいで、他の各局は話題にさえしなかった。無視同然である。知ってほしい事柄だけをつまみあげる報道姿勢に憤りを感じていた。テレビ東京のBS局、BS・JAPANのディレクターから世界遺産の番組を作成するので、メキシコ料理についてレクチャーをお願いしたいと連絡があったのは、1年後の秋の頃だった。嬉しかった、ようやく腰を上げてくれたことが。数日後、店を訪れた5人のスタッフ達、担当責任者のディレクターは「メキシコは、皆目わかりません。どこに焦点を絞っていいのか教えていただきたい。」とお手上げ状態だった。全体像を知ってもらおうと、日本の5.2倍のある国土の各地域に培われ、根付いた、6千年にも及ぶ食の軌跡から話し始めていた。個性豊かな唐辛子の類、香味野菜との妙味溢れる調和、独創性に満ちた調理法、そして、それらが一体となった素晴らしい味の成り立ち。話したいことは山ほどあった。興味深くノートを捕る彼等は真剣そのもので、講話の容は増し、気が付けば3時間の時が過ぎていた。ディレクターから注文があったのは、要のロケ地を3か所に決めたいとの要望だった。

 訪墨する女優の黒木瞳さんの友人がいるメキシコシティは外せないとの事情なので、私の師匠の店、「CABALLO BAYO」とソカロの近くのラグニージャ市場を推奨した。後、2つは難しかったが、やはりメキシコ料理の代表格モーレの発祥の地、プエブラの名店「Fonda de Santa Clara」と七色の色彩を放つモーレの産地、オアハカに決めた。スペイン人の攻勢にも屈しなかった先住民の末裔達が守り通しているオアハカの味も体験してほしかった。番組のタイトルは「黒木瞳が行く食の世界遺産、メキシコ料理の源流を訪ねて」と聞かされた。ようやくメキシコ料理を真正面から捉えた取材がスタートする。しばらく逢っていない師匠のガブリエルに手紙を書こうと思った。勿論、カバージョの味は期待を裏切らないが、数千年もの伝統に刻まれたメキシコ食材を魅力と調理を思う存分見せつけてほしいと便箋に綴り、ディレクターに他渡していた。彼等も確かな手応えを感じたのか、自信を持った表情で「しっかりと撮影してきます。」と店を後にした。2012年2月13日の夜、放映された内容は満足のゆくものだった。驚いたのは、普段ダイニングの部屋には出ない師匠が、自ら伝統サルサの類を調理、解説してくれているシーンの連続場面である。師匠の優しさが充分に伝わってきて、手紙でお願いした言葉に応えてくれた友情には感謝この上ない思いだった。

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第127章 それは神奈川大学学園祭から始まった・・・

 1970年夏、渋谷公園通りに開業した折、時を同じくして神奈川大学に「西風会」が創立されていた。スペイン語を学ぶ中で多岐にわたってメキシコを探索し、纏め上げたい思いが募り、同校の淵上英二が立ち上げたサークルである。1年間、メキシコ、プエブラ自治大学での留学経験を持つ彼の指導力は群を抜いていた。凡そ20人の同好会員と共に当時の日本では未知なる世界の政治、経済、文化の実情を追い求め、レポートに仕上げて行く活動は、教授達も一目置いていた。後にメキシコ国立自治大学大学院でラテンアメリカ研究を専攻し、NHK中南米支局員として活躍して行くが、学生時代から探求心旺盛なその触覚は冴え渡っていた。彼が店に訪ねて来たのはオープンして2か月も経った頃だった。学園祭で本物のタコスを提供したいとの要望である。口頭で伝えて出来るものではないと告げると、学生ですから時間はあります、何でも手伝いますから教えてくださいと哀願された。その実直さが気持ちよく、翌週からほぼ毎日、彼と3名を教習することになる。トルティージャの生地の練り方、伸ばし、焼き方から、サルサ・メヒカーナを仕上げる手順と配分、具材の加熱等、修練しなければならない工程は大変だったと思うが、やっている事が楽しかったのか、皆、明るく、朗らかに日々が過ぎていった。彼等のおかげで店の人材は潤い、学園祭も盛況で上場の結果への運びとなった。

 その後も交流は深まり、事ある度にボランティアで店の仕事に従事してくれる子達が増え、どの子もメキシコの食文化の話に興味津々で、幾人もが時を忘れて聞き入ってくれた。本校にも呼ばれてサークルで講義をする中、当時、副部長を務めていた男がラ・カシータへの就職を希望してきた。願ってもない出来事だった。スペイン語、英語に精通し、メキシコ滞在も経験している経歴はパートナーとして充分すぎる戦力だった。即、採用である。最初に着手してくれたのは、「ラ・カシータ操業マニュアル」の作成であった。予め準備しておく下拵え、仕込み、調理の手順、飲み物、料理の出し方、厨房、パントリー、洗い場における諸作業、それまで口頭で伝えていた現場指導の数々を全て手書きで店の手引きとして一冊に仕上げてくれた。料理名、スペイン語の知識も折り込まれ、流石、西風会で培った実力を目の当たりに見せてくれた。見事なものである。現場はその後、継承されて行く店の来歴の基礎となる貴重な記録として今も大切に保管してある。接客も丁寧で人当たりも良く、後輩にも慕われ、教育係として絶大な存在だった。店が今日あるのも、彼がいたからこそと、いまさらながらに受け止めている。ギターを愛し、憂歌団大好きだった彼は数年後、ブルースの心理を極めるためシカゴへ旅立って行った。帰国後、英語教師の職を経て、現在は現役のブルースシンガーとして活躍している。彼の名は林賢次郎、店の歴史に名を刻む男である。

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第128章 NHK「世界はほしいモノにあふれてる」

 NHKからの調理依頼が舞い込んだのは、平成最後の年となる2019年の年始初頭だった。メキシコ現地ロケで撮影してきた献立類をスタジオで再現して貰いたいとの要望である。番組は「世界はほしいモノにあふれてる」。歌手のJUJUと俳優三浦春馬が司会を務めていて、誰もが良く知るレポートものだった。局が一番組通してメキシコの食文化を取り上げるのは久しぶりのこと、即断で引き受けることにした。現地へ赴いた女性ディレクターの話では、初めて口にしたChilaquiles(チラキレス)の味に感動したようで、これは外せないと、やや興奮気味に伝えてきた。後日、打ち合わせに訪れた彼女に、この料理の語源をレクチャーしていた。近代、メキシコ全土に根付いたおふくろの味と称されるチラキレスは、トルティージャをトマトと少量の唐辛子で煮込むもので、チーズや鶏肉などが加えられた形が一般的である。数千年間、培われてきた食の来歴の中で、チラキレスは チレ(chile)とケリーテ(quelite)の言葉で構成されている。チレは青唐辛子、ケリーテはアカザ科の食用若葉である。古代は煮込みの中に自生の葉を加えただけの素朴なものだった。日本でも水菜や明日葉、紫蘇、三つ葉等、葉を食する習慣は残っているが、メキシコはメルカード(市場)に出向くと、山積みでエパソテ(アリタソウ)、ケリーテ、アボカドの葉などが売られている。

 収録当日、NHKの厨房で懐かしい出会いがあった。「今日の料理」、「朝イチ」の出演時の調理アシスタント担当だった婦人達が歓声を上げて迎えてくれたのである。「先生!今日は何を作るんですか?」と口々に聞いてくるので、用意した食材を披露すると、「食べたい、食べたい!」ともう大騒ぎの様である。アボカドディップのワカモーレ、食用サボテンと豚肉をチレ・ウァヒージョのサルサで絡めた具材のタコス、トマトとチレ・ハラペーニョ入りのメキシカン・スクランブルエッグ、食用サボテンをラードで調理した付け合わせ付きの牛フィレ肉のステーキとりフライド・ビーンズ、焼きたてのトルティージャ、そして勿論、チラキレス等、本番に向けて調理の準備を始めると、5人全員が諸手を挙げて手伝ってくれた。おかげで収録はスムーズに進み、スタジオでは司会者二人が舌鼓を打ちながら料理を口に運ぶ様子が、メキシコ料理の美味しさを充分に伝えていた。本番終了後、下がってくる残り物を待ち詫びていた厨房に「物撮りはありません。」と朗報がもたらされた。撮りが無くなったので、食材が余る事態となったのである。持ち帰るのも手間だし、折角だからと全て調理して、皆に振舞う結末に大喜びの婦人達。戻って来たディレクター達も加わり、十数人の試食が始まった。卓に並んだ数々の皿に、美味しい!美味しい!の連発である。料理人冥利に尽きる言葉の響きに包まれながらいると、彼女が「渡辺さん、チラキレス、現地より美味しい!」と一言。嬉しかった。

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