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メキシコ料理へのアプローチ


 【最新記事は、こちら!】

【目次】
料理人へのプロローグ
メキシコ料理へのアプローチ
メキシコ料理とは
料理の鉄人
なぜメキシコ料理なのか?
世界料理大賞
海外からのお客様
おふくろの味
中南米美術館
メキシコ料理の指導書刊行
岡本太郎先生の思い出
メイクアップアーティスト・トニー田中氏との思い出
「タコス」は「タコ酢」?
外大で培った反骨精神
十勝、場所と環境ラボラトリー
帯広の斬新奇抜な集合体「北の屋台」
TODO MUY RICO. PERFECTAMENTE!
「“チェリー”はスペイン語で“セレサ”」
命ある限り、メキシコ料理探求を!
稲川淳二とラ・カシータ」
岸朝子が選ぶ名店 ラ・カシータ
ラ・カシータでの葬儀
TV番組「愛の貧乏脱出大作戦」
メキシコ料理の「街の巨匠」
“縁”時代を超えた店の存在
「味の記憶」
宮本美智子女史とラ・カシータ
完全アウェーの山王ホテル厨房にて
料理店の定評を得る指針〜夢の実現〜
トルティージャの焼き方を教えてくれませんか
共立女子大の授業名は「国際文化持論―食文化を考える」
胸に残る常連客の笑顔
メキシコを旅立ち日本で成熟した唐辛子「栃木三鷹」
メキシコ料理に対し、いまだ精進の気持ちは衰えず・・
学術書「トウガラシ讃歌」へのお手伝い
ラ・カシータの献立作りの原動力となった食材との出会い
“三笠宮殿下婚礼の儀”当日と重なった撮影の思い出
メキシコ料理はウツにならない
ラ・カシータ、少女コミックに登場!
奇跡のチーズ発見秘話
未来に希望の灯火の花が咲いた瞬間
大勢の人の厚意に支えられた修業のための渡墨
メキシコの蒲鉾
ラ・カシータ創成期の志を伝える教え子たち




料理人へのプロローグ

 衝撃の電流が体を駆け抜けた。一体何が起こったのだろう?それは19才の夏の事だった。その前の年から神戸の著名なレストランで、アルバイトに従事する日が続いていた。ホールの仕事に慣れ親しんだ頃、厨房の料理人から「ちょっと、中も手伝ってくれ!」と声をかけられた。

「何をしたらいいんでしょう?」
「ちょっとそこにあるサラダ用の野菜を切って!」

ラ・カシータ  切り方を教わって包丁を持ち、切り始めた瞬間だった。緊張感ではなく、鳥肌が立つのでもない。手の先からつま先まで、前進の神経が微電流に感電したように戦慄(わなな)いているのだ。今の私を決定付ける調理に目覚めた日の出来事である。それまでは漠然と料理に興味を持っていたが、プロの仕事場で職人の包丁を持たされたことに触発され、真剣に将来の自分を意識する願望の日々を過ごしてゆく。2年半ほど過ぎた頃、すべての献立を把握しフライパンも振らせてもらえるようになっていた。アルバイトに精進するあまり、学業を疎かにしていた私に留年の知らせが届く。思い悩んだ挙句の決断は、自身の体の疼きを信じて中退することだった。

 調理の道を志して新天地に飛び込んだ私を待っていたのは、思いもよらぬ疎外感であった。徒弟制度の厳しさは覚悟はしていたものの、当時の現状では若くして料理人になる方が多く、年下の先輩方にとっては私は疎ましい存在であったはずである。組織化された西洋料理の現場はフランス料理が王道で、今日その深さを知らしめたイタリア料理でさえ皆無の時代であった。試行錯誤の日々が続く中、料理を通じて、自分自身を表現する意識を具現化する答えは、京都外大で学んだスペイン語に拠所を求める自分がいた。スペイン語圏の国々を考察した結果、メキシコ料理に行き着くことになるが、充分な知識や確固たる自信があった訳ではない。唯、この国の持つ陽気な明るさと太陽の国のイメージに、偶然にも京都外大の先輩が経営している神戸のメキシコ料理店の存在が知らされる。即座に面接を申込、採用されたその日から期待に胸を躍らせながら調理に従事する日々が始まる。そんな私を待っていたものは・・・
 
 外国語を訳す事がこんなにも楽しいとは!学生時代には思いもよらなかった毎日である。ラ・カシータ店舗拡大した厨房をほとんど任された私は、タコスを中心にしたメニューに飽きたらず、英語で書かれたMEXICAN−COOKINGの原書を元に、我が意を得たりとばかりに新メニュー開発に取りかかる意欲を燃やし、試作した料理がお客様の評価を得て定番となる喜びに浸りながら無我夢中の日々を過ごしていた。今思えば、まるで時代を担う寵児のように錯覚していたのであろう。2年も過ぎた頃の事だった。神戸港に着いたメキシコの貨物船から船員達が立ち寄ってくれたのである。注文を受け、得意げにいくつもの皿を提供する私に、我が耳を疑う声が聞こえてきた。「何だこれは、メキシコ料理ではないね。」「ひどいね、この皿は。」明らかに不満げに彼らは憤っているのだ。日本人の顧客には美味しいと絶大な賞賛をされた味が何故?問い質した私への返答は、すべてのメニューが本国のものではないという全面否定の残酷な言葉であった。あとに知ることになるが、当時の私は米国で培われたTEX−MEXのメキシコ料理を準えていたのである。

 意気消沈した私は微かな期待を胸に、大阪、名古屋、横浜、東京とメキシコ料理の看板を掲げている店を訪ね歩いてみた。しかし、どの店も似たようなメニューしか提供しておらず、これはもう本国に行って確かめるしかないと心に決め、あらゆる伝(つて)を駆使して情報を集めメキシコへ旅立つことになる。26歳の秋の事だった。到着した次の日から就職活動のため弁護士に労働ビザの申請を依頼して、メキシコ大使館の方に頂いた20件ほどのリストを元に各レストランを訪ねる日々が始まった。しかし、我国よりも失業率の高いこの国の事情ではどこの店も外国人には素っ気無く、冷たくあしらわれただけだった。3週間後、就職先の決まらぬ私は、残りの金で地方を回ってから帰国する気持ちで弁護士に事情を告げに行った。一通り話し終えた頃、彼は自分が顧問をやっている会社の役員がひいきにしている店があるから聞いてみるとその場でその役員に「メキシコ料理に熱意を持った日本人がいる、何とかならないか」と、電話をかけてくれたのである。まったく身も知らぬ他人の温情深い配慮で、その店の面接が予定された私は、次の日、驚嘆に価する光景を目にすることになる。


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メキシコ料理へのアプローチ

その店はメキシコ市の最高級住宅街のど真ん中に広大な邸宅仕様で居を構えていた。100坪ほどの厨房の中央にガラス張りの料理長室があり、そこに通された私にSr.PONTI(総料理長)は「何がしたいんだ。」と質問してきた。どうしても本物のメキシコ料理が覚えたい気持ちを伝えると、「明日から働いてみるか」と許諾してくれたのである。天にも昇る心境だった。後に知ることになるが、約2000人もの客を収容出来るこの店はイタリア人のシェフを筆頭にメキシコ人、スペイン人、ドイツ人のシェフ達を配しており、メキシコ政府をはじめ、各国の大統領や閣僚、経済界に重鎮達が利用する名店だった。あくる日、感動に打ち震えながら厨房に降り立った私が周りを見渡してみると、日本では見たことのない唐辛子類や野菜類の調理が展開されており、バラエティ豊かなメキシコ料理に魅せられた私は、大いなる決意の第一歩を自覚しながら仕事に従事する日々が過ぎていった。半年もたった頃、総料理長から「君が希望しているのはメキシコ料理だね、インターナショナルなメニュー構成のこの店より、メキシコ伝統料理の店に行きなさい。」と告げられ、有り難いことに何と推薦状まで頂いて、別の店に向かうことになる。

 メキシコ伝統料理の最高峰「MESON DEL CABALLO BAYO」はメキシコ市の北西部、大統領官邸の側に位置し、約1200人を収容できる名店だった。今にして思えば、このレストランと料理長のSr. GABRIELとの出会いは正に、私の生涯を決定づける瞬間だったに違いない。現在、メキシコ市で5軒の店を運営するロレード・レストラン・グループの総料理長として指揮を執る彼も、当時はメキシコ料理界の新進気鋭の若手シェフの中でメキシコ各州の伝統的な味を守りながら、毎月変わる数々の特別メニューに新しい工夫を取り入れる研究熱心な仕事人だった。日本人が私一人だったせいなのか、半ばゲスト扱いで仕事に就かせてくれた彼は、前菜、スープ、肉類や魚介の一品料理、デザート等の郷土料理にその余りある情熱を注ぎ込む姿を連日、東洋から来た若者に惜しむことなく曝(さら)け出すことで地域に伝承される料理の真髄を教え込んでくれたのである。そんな彼との恵まれた時間が2年も過ぎた頃、この奥深い正統派メキシコ料理の現実を日本の誰かに伝えたいと、出来ることを教えたいと心の中いっぱいになった想いで一度帰国を決意することになる。

 帰国した私は早速メキシコ大使館を訪ね、都内で本物のメキシコ料理を教えてみたい気持ちを伝えてみた。今考えてみれば、大使館が就職斡旋などする訳もなく、世間知らずと冷静に判断できるのだが、当時の私は思い詰めた気持ちだけが先走り、藁にも縋る思いでそこにいた。後に大使補佐となる彼はじっくり私の話に耳を傾けてくれ、私の目を見据えると、徐に受話器を取り上げダイヤルを回し始めた。相手は気心の知れた間柄らしく、簡潔に事情を説明した後、なんと翌日の面接まで手配してくれた。偶然にも彼のメキシコ留学時代の親友が赤坂でメキシコ料理店を営んでいたのである。大使館と目と鼻の先にあるその店はプロのラテンバンドが生演奏する業界では有名なライブハウスだったが、料理部門だけが充実していなかった。幸運なことに健康状態を確認するだけの形ばかりの面接で即採用が決まった。2週間後、早々に住居を決め、上京した。逸る思いで迎えた初出勤の午後は、少しの緊張と充実感に満ち溢れ、「ようやく日本のメキシコ料理の流れを変えることができる」と確信していた。だが、その思いは見事に打ち砕かれるのである。

 強い変革の意志に囚われていた私は、厨房での挨拶もそこそこに、まず彼らが信じていたTEX-MEXの形態を否定した上で、本来のメキシコ料理の基本を説いた。そして、トルティージャの焼き方、各種サルサのレシピ、多様性に富んだ一品料理の数々を実演してみせ、「明日からこの調理法でやります。宜しくお願いします。」と無事初日を終えたのである。半信半疑の彼らの後に帰路についた私は高揚した気分で、まるで維新を控えた幕末の志士のような思いであった。翌日、驚愕のアクシデントが起こる。厨房に立ったのは自分一人、誰もいない。訳を聞くと退職したとのことである。他のスタッフからは「貴方が来たから・・・」と非難され、窮地に立たされたが、謝罪をした上で一人でやる決心を伝え、納得をしていただいた。とにかく、美味しい料理を出せば顧客には理解してもらえると献立を一新して、その夜を待った。しかし、その考えも甘かった。これまでの味に慣れていた彼らには、「こんなスパイスの効いて無い料理はメキシカンじゃない。」とブーイングの嵐だった。でも、元のメニューに戻すわけにはいかない。「もう少し時間をください。」とオーナーに承諾を求め、仕事を続けていたが、心中は早期にメキシコに戻ることを決めていた。

 苦渋の日々が続く中オーナーに胸中を吐露した私は、後釜を育成することでこの逆境から逃れようとしていた。半年を過ぎる頃、高木と名乗る男からの電話を受けた。「渡辺さんはメキシコ料理のシェフだと大使館の方から聞きました。大事なお話があります。詳しくはお会いしてから・・・」その週の休日、待ち合わせの店に現れた彼の話は意外なものだった。聞けば、自分の住むマンションの知人が渋谷駅前で小さな焼き鳥屋を営んでいるが、その場所にビルが建つことになった。完成するまでの間、公園通りの代替地をもらったが、あいにく坂の上で、同じ商いをやる自信がない。若い人が多い地域なので何が向いているのか相談を持ちかけられたとのこと。彼の頭に閃いたのはメキシコ料理だったが、果たして料理人がいるのかどうかメキシコ大使館に問い合わせたところ、私の存在を教えられた。是非、知人に逢わせたいと懇願されたのである。表現の場所を求めていた私には願ってもない吉報であった。早速了承して話は進み、店の運営を任されることになった。たった7 坪の小さな物件で、期間は約1 年半の契約ではあったが、限りない夢の実現に向けていよいよ第一歩を踏み出した。

 念願の自分の厨房を手に入れた私は、手が届く、目が届く範囲の気持ちをこめて店名を「La Casita」(小さな家の意)と名づけた。1 坪の調理場には制限があったが、前菜、スープ、軽食、一品料理、デザートに至るまでのメニューを構成し、これまでのハードシェルのタコスや豆料理の幻影を打ち消す表明からスタートした、この店は徐々に知識人たちに認められていった。
ラ・カシータ
 自画自賛になるが、妥協を許さないすべて手作りの献立は、味もさることながら目新しさに評判を呼び、月刊誌や週刊誌の取材も受けるようになった。そんな折、「マヤ、アステカの遺跡」の写真集への原稿依頼や、近くのNHK から、ラジオでメキシコ料理の解釈(毎週30 分×4 回)について話す機会を与えられた。この出来事が自分の中に隠れていた使命感を呼び起こし、表現ができる場所を設定して、それを披露することが第一なのだと意識するようになった。まだ、若干29 歳、メキシコに勉強に行く時間は何度でも作れる、我が店を持つことのほうが先決だという思いを深めていった。契約が切れる年の秋、独立を考えていた私に顧客の一人が「代官山いいよ。」とアドバイスしてくれたのである。この言葉によって私は千載一遇のチャンスを迎えることになる。

 通常、飲食業の店舗を構えるには、立地条件を第一に掲げ、人通りや駅周辺の繁栄を考慮した場所を選ぶものだが、当時の代官山は駅の乗降客も少なく、まるで不向きなところだった。案の定、業者や知人から六本木や赤坂、銀座など勧められたが、私はこの代官山のロケーションが気に入っていた。既存の街のイメージが出来上がっている地域より、住宅街の中を幹線道路が走る何も無い場所こそメキシコ料理の主張を貫けると確信していたのである。敢えていうなら、顧客にわざわざ足を運んでもらってこそ対等に立ち向かえると、まるで戦いを挑むような気持ちでいた。しかし、繁華街でない分、物件は殆ど無く思うように事は運ばなかった。暮れも押し迫った頃、あきらめかけていた私に朗報が届く。先般「代官山がいいよ!」と助言してくれた顧客の知人が管理するビルでリース業を営んでいた事務所が、年内で閉鎖すると言う知らせだった。都心部とは比較にならない格安の家賃契約で交渉が成立し、場所の権利を確保した私は開店準備に奔走することになる。少ない資金で事を進めるには従来の常識に囚われず、イスやテーブル、看板は手作り、そして、内装の骨格は家屋を解体した廃材を譲り受け、業者に託したのである。時は1978 年、まだ、バブルの恩恵を受ける随分前だった。

ラ・カシータ  La Casita(小さな家)のイメージどおり、事務所の駐車場をテラスに作り替え、正面の景観を一軒家風にデザインしたこの店が、近い将来、時代の潮流に巻き込まれ、やがて伝説の店になろうとは、このときの自分には思いもよらなかった。さて、遥かなる夢に向ってスタートしたこの年、客はまばらだったが、運気は意外と早く訪れた。幸いにも代官山地域には一流のデザイナーを抱えるアパレルの会社や著名人の自宅、芸能プロの事務所が点在していて、いわゆる時代の表現を先取りする人々が大勢いたのである。ものめずらしさに来店した彼らは、これまでに体験したことのないメキシコ料理の表現に驚き、理屈っぽく解釈を語る私に注目し、口コミで店の存在を広めてくれた。現在でも進行のある愛川欣也夫妻やサックス奏者の伊東たけし君はこの頃から常連だ。店は評判を呼び、取材も増え、TVの料理番組にも取り上げられていった。旺盛な探究心は止むことを知らず、メキシコ大使館との交流の中で大使の食事を作らせていただいたり、本国から原書を取り寄せて食文化の歴史や郷土料理の実体の就学に没頭するのもこの頃であった。だが、順風満帆に思えた店の経営の前途を揺るがす事態が私を待っていた。

 近代、数多くのシェフたちが知らしめたイタリア料理に、ピッツェリア、トラットリア、リストランテと店の形態に区別があるのは周知の事実だが、メキシコ料理に置き換えてみるとまだまだその認識には程遠く、これから30〜50年の時間を費やさなければいけないのが実情である。振り返れば30年前の私はレストランとしてのメキシコ料理店を位置づける思いに強く駆られていた。時代に助けられたのは、その頃の代官山のレストラン事情が小川軒を初めとしてマダム・トキ、アントニオ、シェ・リュイ、レンガ屋等、凄腕のシェフを配する一流店しかなかったことが一因とされるであろう。無謀にもそんな所に出店してしまったラ・カシータが徹底して味を追及する姿勢で臨むものだから、よほどの裏づけのある店だと顧客の間にありがたい噂が広まったのである。各国の大使館員だけでなく、メキシコ観光審議会の船場局長の呼びかけで世界40ヶ国の局長たちの集いがあったり、外資系会社の役員たちの家族の食事会などでお客様の殆どが外国の方ばかりで埋まる日々もあった。顧客の絶大な後押しに恵まれて、こうして付加価値の付いたラ・カシータは、連日満員で予約の取れない人気店として世間に認知されていったのである。

 順調な店の運営を揺るがすその黒い影は、何の前触れもなく突然やってきた。9年も過ぎた年の暮れのことだった。厳つい面構えの男が訪ねて来て、「ええ場所やなあ、欲しいなあ。」と話しかけてきたのである。最初は冗談だと思って聞き流していたのだが、本気らしく、この場所の権利を放棄して出てくれと言うのだ。後に知ることになるが、当時は都心の一等地を土地の転売をして利鞘を稼ぐ、いわゆる地上げ屋と呼ばれる人々が横行していて、正にその類の人物だった。幾度かの交渉の中でこちらの言い分は通じないままに、相手の要求は脅迫めいた内客にエスカレートしていった。従業員に対する危害や放火を匂わす発言には成すすべもなく、代替地も決まらぬ状況で営業を断念する事態に追い込まれてしまった。10数人いたスタッフたちも事の深刻さに解散を余儀なくされ、料理長と他2名残して再会のプランを相談することになった。近くにアパートの一室を借りて電話をひき、毎日かかる予約の方々に店がない事情を説明して、「場所は未定ですが再開の折には必ずお知らせします」と連絡名簿を作成していった。結局、現在の場所にオープンするまで8ヶ月の時を要したが、名簿の人数は6000人を超えていた。

 9年の歳月を培った旧山手通りの ラ・カシータは我が意の想定を遥かに超えて、顧客の胸に印象深く刻み込まれていた。思い返してみれば横暴の限りなのだが、客が来店すると即座にメニューと伝票、ボールペンを卓に置き、「ご注文が決まりましたらこちらにお書き下さい。」と応対していたのである。顧客の知識の中にあるTEX-MEXに依存する偏った思いを蹴散らして、本来の姿に遭遇して頂くために強行した手法が意外にも面白いと喜ばれたのである。最初は戸惑いを覚えていたそれぞれの客達も、次に来店した時にはメニューを選びながら、「この店は注文を自分で書くんだよ。」と、まるでオリエンテーションのように参加する意識で捉えていた。

 飲食業の常識を覆した手法は顧客の心に自分が先に見つけた店と優越感を抱かせ、さらに個別の料理名を覚えてもらえた上、オーダー間違いも無い、正に一石二鳥の結果を得たのである。

 30年前のその頃を振り返る顧客達によく言われるのが、あの頃の貴方は愛想が無かった、怖かった、よく叱られた・・・でも美味しかったからと、味の定評が救いになっていた様である。現在の自分はもう当時の様子を殆ど忘れてしまっているが、受けた方はしっかりと記憶に残っているものかもしれない。

 語り草となる過去のエピソードは数知れず、先日も常連客の一人、メークアーティストのトニー田中氏と話していたら。「そういえば、10年くらい口をきいてくれなかったよね。」と当時の話題になった。敢えて無視した訳ではないが、芸能界や経済界、写真や芸術の各専門分野の著名人達が大挙来店してくれた状況の中で、親しく話す事が心の隙を作り、つい相手の意向を聞いてしまう自分を恐れていただけのことであった。一般の方々への接客同様に料理の説明だけに絞り込んだ応対は、常に持て囃される立場の彼らに意外性を植え付け、「ラ・カシータのマスターは偏屈、頑固だ。」と悪評(?)を広めてくれた。頑なな姿勢は一点の曇りも許さず、夏の季節でもアイスコーヒーはメニューに無かった。メキシコに存在しないだけの理由で・・・。酒もメキシコビールとワイン、テキーラ、マルガリータだけに限定し、全ての価格を料理よりも高くしていた。その頃のメキシコ料理の看板を揚げていた他店が夕方から夜中の営業態勢で、飲んで騒いでのイメージしか持ってもらえなかったからである。飲みに来る場所じゃない、食事に来て欲しいと午前中からOPENしてラスト・オーダーは21時30分であった。こんな店によくぞ顧客達は辛抱して付いて来てくれたと、今更ながらに感謝にたえない。


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メキシコ料理とは

 フランス料理やイタリア料理等に比べて、表現者が断然数少ない、メキシコ料理の分野において、一般の方々の認識の乏しさは致し方ないとしても、料理を提供する側にあまりにも大きな誤解や勘違いがある。例えば、ナチョス、ブリトー、チリ・コン・カン、スパイシーなひき肉にトマト、チーズ、レタスを絡めたハードシェルのタコス等、メキシコ本国には無い物ばかりである。これらはアメリカ国内におけるTEX-MEXの食文化に形成された彼らの好みの産物に他ならない。ましてやサルサ&チップスの提供のされ方もメキシコ本国には存在しない。

 戦後、アメリカを世界の基準として、文化や生活体系を教えられた歴史を顧みると、我国におけるメキシコ料理の出現は、昭和35年のトリオ・ロス・パンチョスの来日によるラテン音楽ブームに端を発する。英語の歌を聴きなれた日本人にとって、スペイン語で歌われる歌詞は新鮮で、プロもアマもカバーする演奏者が一躍急増した。そんな彼らが出演する都市部のナイトクラブやライブハウスでメキシコの歌に似合うのはメキシコ料理だと、英語の料理本を訳して提供し始めたのが最初である。約50年の歳月になるが、当初、入り口を間違った所に根深いものがある。

 TEX-MEXの成り立ちを考察してみると、ちょうど日本の中華料理の食文化に準えることができる。およそ100年余の期間に培われた我国の中華料理は、様々な献立が考案され、現在、全国の街角に無数の料理店が点在している。そこで提供されているラーメン(中華そば)や四川炒飯や中華丼、焼き餃子の形態等、中国本国には無いものばかりである。勿論、横浜や神戸の中華街、全国の専門店に北京、広東、四川、上海等の地域性豊かな特徴と共に、数多くの前菜やスープ、肉類や魚介の一品料理、デザートに至るまで揃っているのは周知の事実なのだが、やはり、私たちにとって身近な中華は前述のメニュー構成であろう。それぞれの国における外国料理の道筋は、その国の国民が好む食の普遍性に基づいて、根付いていくものと解釈できる。米や麺が主食の日本人には必然的に中華のテイストを取り入れる形に創作されていったのである。カレーやポークカツレツが、カレーうどんやカツ丼に定着したように・・・。

 移民の国アメリカでは、揚げ春巻きのようなチミチャンガは中国系の、ラザニアのようなエンチラーダはイタリア系の州で考案されたと推測できる。余談になるが沖縄発祥のタコライスはメキシコ料理だと勘違いされているのである。


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料理の鉄人

 俄かには信じる事は出来なかった。突然の電話の第一声は「こちら料理の鉄人の番組の者ですが・・・」というものだった。後日、訪ねて来られたディレクターは「是非、挑戦者としてメキシコ料理を披露して頂きたい。」と持ちかけてきたのである。正直、困惑していた。現在の場所に移転して10 年余、「チューボーですよ」をはじめ、「どっちの料理ショー」、「愛の貧乏脱出大作戦」等、数々の料理番組のロケを経験させて頂いたが、この番組だけは、まさか?という思いだった。選りすぐりの料理人達が限られた時間の中で真剣勝負を戦う、最高峰の大舞台。料理界の横綱(鉄人)に果たして自分が挑めるのか?緊張と不安が身体を取り巻いていた。それぞれの立場上、断る方もいるらしいが、出演を決意させたのはメキシコ料理普及への使命感であった。勝ち負けにこだわるよりも、辛口揃いの審査員たちに「メキシコ料理は美味しい!」とコメントしてもらえれば、全国ネットで知られるチャンスである。当時はイタリア料理の大ブームの最中、和食や中華の鉄人達よりも、イタリアンの鉄人と戦わせてもらえるなら・・・とお願いしたら、OK が出た。迎えた収録の朝、局に向う車の中で「普段どおりやればいい・・・。」と何度も自分に言い聞かせていた。

 持参していいのは包丁とコック服だけ。キッチンスタジアムにある食材を使って全て最初から手作りでスタートするルールはこれまでに体験した事の無い過酷な条件であった。服部調理師学校の師範2 人を助手に紹介された後、リハーサルも無くすぐに収録は始まった。カメラが回り始めたらどんなアクシデントがあっても1 時間のタイムリミットの中でやり遂げなければいけない。まるでリングに上げられた格闘家の心境であった。与えられた題材は「マンゴー」、難しいとは感じたがやるしかない。初めての場所ではあるが自分の厨房だと思い込むことで落ち着きを取り戻していた。指示を徹底しても慣れない助手達に2〜3件失敗はあったが、終了1 分前に何とか6 品出来上がった。ミスを誘うのも製作側の狙い通りだったのだろう。評価数は味が10 点、創作性が5 点、盛り付けが5 点である。相手はイタリアンの鉄人、後者2 つは1 点ずつおいつかなくても味の評価は同等に戦いたい。そんな思いで審査の結果を待った。岸朝子先生、加納典明さんら5 人の点数は18 点、身体の中に安堵感が満ち溢れたが、鉄人は何と20 点満点を獲得したのである。後に鉄人(神戸勝彦氏)から「最高の戦いだった。」と連絡を頂いた。


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なぜメキシコ料理なのか?

 この30余年の間、数え切れない取材の度に必ず質問されることがある。「どうしてメキシコ料理なんですか?」と。周りから見ればそんなに特異なことなのだろうか。取材陣の頭の中には、料理の道を志したものは和食か中華、フレンチ、現在ならイタリアンといった固定観念が住み着いているようである。確かに料理界において1970年代は前者3つは常道であり、後の1990年代後半はイタリアンが大ブームとなった。およそ10年前、イタリア本国での修行に渡った日本人の人数はその年4000人を数えた。そして、フレンチを衰退させイタリアンが主となっている現実がある。そんな我国の現状から推察すればリポーターの質問は的を射ているように思える。事実、私のメキシコ修行(1974年〜)以降、本国で何年も料理の仕事に邁進した日本人は誰一人いない。言語のネックを理由とするならば、フレンチやイタリアンも同様であろう。思うにこの国民性として、多人数が認める情報の事実は常道(常識)として蓄えてゆくが、人々が関心の無い部門の知識はしらなくても羞恥の念に囚われないのである。料理の仕事だけに限らず一般的な通念の尺度で物事が判断されるのは、この国の特別事情の感がある。

 小学校低学年の頃、遠足や運動会よりも楽しみだった日がある。年に数回命じられる給食当番だ。前日は枕元に三角巾、マスク、前掛けを置き、興奮して眠れなかった記憶がある。給食室にある大きな寸胴から分けられた料理を教室で皆に給仕する作業に心が弾んでいた。中学生の頃はサンドイッチを得意げにつくったり、父親が吸っていた50本入りのショートピースの空き缶に針金を付け、米と水を入れて飯盒炊さんの真似事をして友達をもてなしていた。シナイプスという言葉をご存知だろうか?脳の一部にある幼児性が根ざす神経である。成長の過程で世間の通念や親の教育によって消え去る部分らしいが、ジャズの大御所、故マイルス・デイビスの脳には残っていて、あの常人の及べない音を表現できたと聞いたことがある。天才と肩を並べようとは思わないが、幼い頃に夢中になったあのワクワク感こそ、自分自身を表現できる源流だと理解している。社会通念に従ったままでは出会うことの無かった調理に目覚め、天職と感じるのは自身の疼きに忠実なだけだったが、メキシコ料理の伝達師と言われるまでに評価を受けられたのは、京都外大で学んだスペイン語が基盤となっている巡り合わせに感謝したい。


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世界料理大賞

 代官山に開業して5年も過ぎた初春の頃だった。日本テレビから連絡があり、開局30周年の記念特別番組「世界料理大賞」の手伝いを依頼されたのである。番組の要旨は、フランス、イタリア、スペイン、中国等、世界の主要14カ国の一流レストランのシェフ達を一同に集めてグランプリを競わせるもので、しかも、2時間生放送で進行させるという途方も無い企画であった。

 自分の役目はメキシコ担当のフードコーディネーター兼、通訳。日本で揃う食材と本国から持ち込まなければ無理なものや、調理器具、食器などの打ち合わせが進む中、嬉しい事実が判明した。私が修行した店が選出され、師と仰ぐSr. GABRIEL ESPINOSAが来日するというのだ。なんという偶然だろう。勿論、彼は私がこの番組に携わっていることは知る由もない。再会を心待ちにして準備は進んでいった。有り難いことに当時、研修生を受け入れた縁で懇意にしていた新宿調理学校の師範にお願いをしたら、学内の調理施設をリハーサルに使わせてもらえることになった。何せ総勢30名余の世界のトップレベルの料理人がその腕を競う世界初の番組、学校側にとっても最高の宣伝材料になると了承された模様である。時は1983年4月、正に決戦の火蓋が切られようとしていた。

 喜びの再会もそこそこにリハーサルに付き合った私は、目の当たりに見たプロの仕事人達の技に敬服していた。隣にはフランスから招かれたセルジュ・チヴォー氏の調理場所、その横は先代の湯木貞一氏率いる京都吉兆、まるで本番さながらの緊張感の中での調理実習。こんな贅沢な光景は壮観という言葉だけではとても表現できないものであった。明くる日、当時としてはまだ珍しい英語とのバイリンガルの生中継はさらに驚かされた。会場は赤坂プリンスホテルの大広間、来賓は外務大臣、農林大臣、文部大臣、日本駐在の各国大使夫妻、そして味の権威を誇るそれぞれの国の料理評論家、森英恵さんや池田満寿夫さん、日本の女優陣を配して席数は200席を超えていた。テレビ番組の域を超越した現場に居合わせた経験は、その後何度も自身を奮い立たせる糧となったのである。フランスの優勝で幕を閉じた後、師匠を代官山の店に招待した。束の間ではあったが料理を馳走し、お褒めの言葉もいただけた。日本にメキシコ料理を普及させる使命感がより芽生えた一時は、26年経った今、ひときわ感慨深いものがある。


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海外からのお客様

 7年程前の週末の午後の事、英国風の上品なスーツを身につけた、いかにも上流階級を思わせるアメリカ人数人が来店した。側には格闘家のボブ・サップに似た、屈強そうなボディガードまで付いている。いったい何者だろう?様子を伺いながら注文を取り始めると、リーダーらしき男から「料理の鉄人を見た、君の料理が食べたくて来た。」と挨拶された。

 そういえば、Iron Chef(アイアン・シェフ)のタイトルで米国全土で大ヒットしているという噂を聞いたことがあった。お薦めの料理をということで前菜から一品を順に提供している間、彼らは上機嫌で口々に「美味しい!」と声を上げていた。精算時、名刺を交換して驚いた。そこにはロスアンジェルス・ディズニーランド、副社長と肩書きがあった。聞けば、東京ディズニーランドの調印式があって3日間来日したが、ここにはどうしても来たかったと話してくれたのである。忙しいスケジュールの中、来店してくれたお礼を言うと、全て美味しかったと褒めてくれた上、ミッキーマウスのネクタイピンまでくださった。約500人もの挑戦者が挑む番組なのに、米国人にとってはメキシコ料理が一番身近で、私が印象に残ったらしい。

 それからは西海岸だけでなく、ボストンやニューヨーク、シカゴ南部などから数多くの人々が来店してくれたが、中でも感慨深いエピソードはヒューストンでメキシコ料理のチェーン店を営むメキシコ人が訪ねてきたときのことである。娘と共に日本観光に訪れた彼は、京都、奈良を巡る中で東京滞在はたった2日。その両日ともラ・カシータで食事をしながら話し込んでくれた。自分も異国の地でメキシコ料理の美味しさを普及させようと頑張っているが、日本人である私がメキシコ料理の真髄を表現している姿を番組で見た、どうしても逢いたかったと・・・。

 忠実に再現された献立は彼の心を打つだけでなく、店内にいた何組もの日本人の客たちが満ち足りた幸せそうな表情で食事をする光景がよほどうれしかったのか、目に涙を溜めていた。プレゼントされたメキシコのCDには賞賛と励ましの言葉がスペイン語で書きなぐられていて、今も大切にしている。「料理の鉄人」の影響度もさることながら、料理という媒体を通じて、まるで歌のように人々の胸に響く出来事の数々を思うと、料理人冥利に尽きるだけでなく、つくづくこの仕事を選んでよかったなと痛感している。

    


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おふくろの味

 メキシコ本国における料理場の成り立ちは実に興味深いものがある。それは伝統料理を提供する殆どのレストランの要の部署を女性たちがしめている実情である。

 トルティージャの焼き場やスープ類、各種アントヒートス(伝承惣菜)の調理部門など全て婦人たちが任されている。我国の調理場は大体男性中心に構成されているが、メキシコ人の食に対する意識は家庭を基本とした「おふくろの味」から成り立っているものと推察される。生命の糧であるトルティージャと種々の献立を組み立てる味に関して、女性が絶対的な信頼と尊敬の念を抱かれて仕事に従事している姿が各所にある。古来から現代に至るまでのメキシコ料理を支えてきた、神からの奇跡の贈り物であるとうもろこしを慈しみ、正に「母なる大地の恵み」を大事に育て上げてきたこの国の食文化は、近代文化に翻弄された日本の我々が失いつつある、食の原点を教えられる感がある。

 タコスに代表される幾つものアントヒートスが構築する独創的な着想の料理の数々は、美味しいものを常に供したい母親の愛情が基本となった、多大なる信頼に伝承された礎の歴史といえるだろう。惣菜も含めて、トルティージャやマサ(生地)を主体に作られるアントヒートスの意味が「欲しくてたまらないもの」と訳されるのも、母と子供の生活に根ざした純朴な食の要求が動機なって浸透したものと考えられる。

 修業時代に印象的な出来事がある。1975年春の頃、わが師であるSR.GABRIELがいつものように月変わりの特別メニューの献立を皆に発表し始めた時の事だった。中の一品に「SOPA DE JAIBA WATANABE」(渡辺のカニスープ)とあった。驚いた。尋ねると「お前のイメージで料理を作ってみたんだ」とあっさりと答えてくれた。それまでがむしゃらにノートをとり、何でもコピーして覚えればいいと考えていた私に、メキシコ人テイストを理解すれば、料理にはあらゆる可能性があり、無限に広がっていくものだと気付かせてくれたのである。それは家庭料理における食材をいとおしみ、子供の喜ぶ顔が見たいという母親の気持ちに通ずるものだと実感した。伝統料理の最高峰のレストランであるが故ではなく、彼を始め、厨房全員が温かい心で調理するからこそ何十年も絶賛され続けているのだと・・・。

 2年前、弟子の一人が彼の元で教えを受ける機会があった。厨房を実体験した彼女の報告は、私に話を聞いた通りで感動したというものだった。我国におけるメキシコ料理の発展はまだまだ始まったばかり、充実した未来図に向かって教え子達の活躍に期待したいものである。


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中南米美術館

 2003年夏、陶芸お備前焼の郷、岡山日生(ひなせ)の町に我国唯一の中南米美術館が開館した。

 理事長の森下氏とは30年来の懇意な間柄である。記念式典のイベントで東大の増田義郎教授や京都外大の大垣教授が講演される中、自分も料理講習を依頼された。3日間、計5回の実習は好評を博し、帰路につこうとした時のことだった。何人かの受講者に呼び止められ、「先生はお好み焼きに関心はありますか?」と問われたのである。話をよく聞いてみると、日生は国内でも有数のお好み焼きの地で、生牡蠣をふんだんに使った「カキお好み焼き」で日本一を獲得した名誉ある場所だった。彼らはそれぞれにお好み焼き店の経営者たちで、冬は生牡蠣の看板メニューがあるが、夏に出すものがない、「メキシカンテイストのお好み焼きができませんか?」との相談だった。

 瞬間、頭の中をよぎるものがあったので、構想をまとめてまた来月来ますと約束をして別れた。帰りの飛行の中では疲れを忘れてあれこれと思いをめぐらし、楽しくて仕方がなかったのを覚えている。翌月、再び、日生を訪れ、20名近く集まられた店主たちに具体的な内容を話し、協議の末、代表店の一軒を借り、実現に向けて1日講習を行うことができた。

 2週間後、店に溢れる人々の中にNHK岡山と中国テレビのカメラマン、リポーターたちがいたのには驚いた。森下氏の計らいでニュース報道になるのだそうだ。カメラが回り始め、講習がスタートした。解説をしながら、お好み焼きの生地にとうもろこし粉を混ぜ、キャベツではなく刻みレタスを加えたあたりからざわついていた店内は静かになり、メモを取る音とリポーターのささやくような肉声がかすかに響いていた。生地を熱く焼けた鉄板に何枚も広げ、具材は小海老とサイコロ状に切ったチーズ、アボカド、そして、薄切りにしたベーコン。極めつけのソースはトマト、香味野菜をベースにスモークしたメキシコの唐辛子のチレ・チポトレを合わせたピリ辛のもの。ソースを塗ったらガスバーナーで上から焼いてゆく。美味しそうな匂いが立ち込めた段階で「試食をどうぞ!」と促した。一様に感嘆の声が上がっている中、報道陣も仕事を忘れてカメラが止まっていた。良かった、気に入ってもらえた。

 全身に安堵の気持ちが充満していた。その夜のニュースだけでなく、後日、ローカル番組に何度も呼ばれて出来映えを披露した店主たちのおかげで、一躍有名になった店は、一年後の夏、1時間待ちの行列ができていますと知らせてきた。


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メキシコ料理の指導書刊行

 1996年、初夏の頃、日置と名乗る一見怪しげな男が来訪した。用件は料理講習の依頼。大柄で酒焼けした顔つきの彼の正体は、チキンラーメンで有名な日清食品の食文化セミナーの代表プロデューサーだった。

 毎月、数回開催されるこの教室は6000人の会員を抱え、各回抽選で60人の受講生しか聴講できないシステムで、講師の顔ぶれも鉄人の道場六三郎氏、陳健一氏、坂井シェフをはじめ、分とく山の野崎氏、創作中華の脇屋氏、ラ・ベットラの落合氏等、著名な料理人たちが名を連ねる名門のセミナーである。身に余る光栄と自覚して受諾した。

 9月末の開催に向けて広報されたメキシコ料理の第1回は、有難いことに抽選で外れた方々の立ち見でもいいからとの強い希望があり、約80人を受け入れることを了承して講習が行われた。講義内容が進むにつれ、受講生たちの反応は未知の世界を探索する興味にそそられ、実習と共に瞬時に時間が過ぎた。反響の大きさにスタッフたちも驚き、終了後、控え室でメキシコ料理講義が大いに盛り上がった一日であった。伏線を敷いたつもりは全くなかったが、この出来事で運命の糸に引かれていくことになるとはこの時は思いもよらなかった。

 それから4年が経過し、幾度目かの講習の後、日置氏から「渡辺さんはこんなにメキシコ料理に詳しいのに、どうして本を出さないんですか。」と聞かれた。それまでに料理書や辞典に寄稿した原稿はいくつかあったものの、「自分の本なんておこがましくて、それに出版社に企画も無いでしょう。」と答えると、「勿体無いですね・・・。」と彼は残念そうだった。

 数日後、2人の男を連れて来店した彼から紹介された人物たちの名刺には思わず驚愕する肩書きが記されていた。旭屋出版、営業本部長、編集長の文字である。営業本部長の男が彼の大学時代の朋友で、一度話を聞きたいとの訪問であった。どこまで熱弁を振るったのか、気がつけば3時間を越えていたようで「会議で検討します。」と返事をいただけた。具体的な企画書を持って編集長が来られたのは一ヵ月後のことだった。店を年中無休で営業している関係上、それから約一年の歳月をかけて10数回の撮影を敢行し、合間を縫って原稿の執筆をしたため、メキシコ料理の指導書を刊行する事ができた。

 国会図書館を始め、全国の図書館、飲食に係る方々が購入してくれて初版は2ヶ月で完売、5年目で9版を数える結果が出た。専門書の販売が伸び悩む昨今意外な実績らしく、本部長から第2弾の企画が持ちかけることになる。


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岡本太郎先生の思い出

話は少し時代を遡るが、代官山にOPENした1978年、夏の頃、ある出版社の企画が持ち込まれた。「メキシコ料理に舌鼓を打つ、巨匠、岡本太郎」の特集記事だったと覚えている。メキシコシティの新築ホテルのロビーに、雄大な壁画を完成させて帰国したばかりの太郎先生には打ってつけの取材だと、編集者たちは意気込んでいた。午後の店を借り切って行われたインタビューの間、前菜、スープ、タコス等の軽食、海老、牛フィレ肉、デザートまで余すところなく食された先生はすこぶる上機嫌で、驚いたことに「こんなに美味しいメキシコ料理を作れる人にメキシコ料理の実情を執筆してもらえばいい。」と提案されたのである。思いがけない展開に3日間の猶予をいただき、「素晴らしき愛と情熱の味」と称して書き上げた約5000字の原稿は特集記事のラスト2ページに掲載された。文章を書く才能なんてない自分には・・・と自信はなかったが、頑張ればできるかな?と感じさせてくれた出来事であった。有難いことにそれ以来、飲食専門誌からの執筆依頼や「地球の歩き方」のメキシコ料理講座等、実践で精進できる機会に恵まれていくのである。

取材時の料理が余程気に入られたのか、それから太郎先生は養女の敏子さんと二人で毎月のように来店された。特にお好きだったのは、長時間煮込んだ豚の胃に焦がし唐辛子のサルサをかけたタコス。「これは絶品だね!」と毎回誉めていただけるので、ある時、「先生、これも芸術ですか?」と冗談めかして聞いてみたことがある。即座の回答は[爆発だ!]と例のポーズと表情でおどけられた。これからの日本国内でのメキシコ料理の発展性について熱く語る私に何かを感じられたのか、「君はすごいな!」と肩をポンと叩かれた思い出もある。印象深いのは、岡本太郎館の話題になった時、「あんなものはどっちでもいい。」と答えられたのである。実績を振り返らず、次に何を表現するしか心中に無い。亡くなられる直前の2月前までテキーラをショットで嗜みながら、タコスをむさぼるように食す元気なお姿は今もこの目に焼きついている。ラ・カシータをこよなく愛してくれたお二人に、改めてご冥福をお祈り致します。見栄も虚勢も持たず、自分自身に忠実な情熱の塊の奇才と20余年もの間お付き合いできたことは私の心の財産と感じている。

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メイクアップアーティスト・トニー田中氏との思い出

 2003年、秋の頃、「渡辺さん、今度30人くらいのパーティをやりたいんだけど。」とメイクアーティスト、トニー田中氏からもちかけられた。翌年の春、ラスベガスでモデルを使ったショーを計画していたが、準備が整ったため、お世話になった恩人を招待したいとのことだった。その恩人とはMr.ウィットマー。1920年代、マックスファクター社と時を同じくして創設された化粧品会社ウィットマーは販売よりもハリウッド映画の俳優人のメイクに携わり、栄華を極めた名門の一族で、マリリン・モンロー、ビビアン・リー、ユル・ブリンナー等、そうそうたる役者のメイクを担当してきた大御所だと説明を受けた。申し訳ないが、気を使うお客に見合うサービスができる店ではないとやんわりと断ろうとしたら、米国での別れ際、「日本に美味しいメキシコ料理店があるんだ。」と告げたところ、「私はロスアンジェルスで育ったので、食べ飽きている。」と返されたので、「僕は渡辺さんの料理のほうが上だと思っている。だから是非つれてきたい。」と哀願された。有難く感謝の気持ちで受諾してその当日がやってきた。後に訳を知るが、トニー氏はかなり緊張した面持ちで彼の到着を待っていた。

 淑女の通訳と共に来店した彼は年の頃なら70代半ば、大柄で品のある顔立ちは流石に貫禄充分であった。「何が出てくるんだね。」と少し不機嫌そうな様子を憂慮してか、トニー氏は紹介もそこそこに食事のスタートを促した。前菜はフレッシュアボガドのディップ「ワカモーレ」、そして、とうもろこしの生地でチーズを包み揚げた「ケサディージャ」、牛肉のタコスと献立が進むにつれ表情が柔和になり「美味しいね」と頷かれた。海老のにんにく炒めを食べ終えた頃、「何かスペシャルはできるかね。」とリクエストされた。いくつかの裏メニューの中から2種類の唐辛子と香味野菜を煮込んだサルサ、「アドボ」を豚ロース肉に揉み込んで焼いたステーキを選び、トルティージャと共にお出ししたところ、余すところ無く召し上がり、「如何でした?」の問いかけには満面の笑みで「EXCElLENT!」と握手を求められた。中座して帰られた後、トニー氏からは、初日の京都観光の折の「たん熊」、東京に戻っての「吉兆」、2軒とも殆ど召し上がらなかったので、最終日の「ラ・カシータ」も気をもんでいたと聞かされた。後日、翌年のショーの際、ウィットマー氏と再度、ラ・カシータが話題に上ったと報告を受けた。

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「タコス」は「タコ酢」?

 1976年、渋谷の公園通りにオープンした頃は、一般の人々のメキシコ料理に関する認識は、まだまだ程遠いものがあった。今では笑い話になるが、「タコス」を「タコ酢」と勘違いされたり、ワニやトカゲが食材の下手物料理と思われもした。そんな中でメキシコ大使館、領事館を始め、メキシコ政府観光審議会の職員の方々、絵画、写真、音楽等の表現者達一同が集合したグループ「メキシコを知る会」のメンバーたちの「ラ・カシータの料理は本物だよ!」という評価が細波(さざなみ)のように浸透したのか、箱根の著名な旅館から「メキシコ祭り」の料理指導の依頼が舞い込んだ。当時は唐辛子の種類も現在に比べると格段に乏しかったが、入手出来うる限りの材料でメニューを構成し、懇切丁寧に教えた結果、その企画は大成功を収めた。メキシコ大使館も関与していたせいか、各部署の関係者からの絶賛された。この時はまだ、知る由も無かったが、この出来事が大きな体験に導かれていく導火線になっていた。それは代官山に店を構えたばかりの頃だった。大使館からの突然の電話は耳を疑う事実を告げていた。「来月、メキシコ大統領が来日されることになった。宿泊先のホテル、迎賓館での宴会の料理を指導していただきたい。」と・・・。

 その宿泊先とは赤坂ホテルニューオータニ、日本屈指の名門ホテルである。依頼を受けたのは名誉なことであるが、真っ先に頭を過ぎったのは、現場が信じ込んでいるアメリカメキシコ料理の認識を覆せるのかの思いであった。自信とプライドに満ちた職人達が溢れる厨房の中で、果たして本来の自分を表現できるのか?後日、赤坂見附の駅に降り立った私には目の前の本館の建物が正に大きな壁に感じられた。久々の緊張感を味わいながら入館して案内されたメニューの編成会議の部屋には、古谷総料理長以下、ソムリエ長の熱田氏、宴会部長、料飲部長、日本人、フランス人2人の宴会料理長の6人が待ち構えていた。自己紹介を終えた私にまず料飲部長から、「資料は持ってきたのかね。」と質問があった。レシピがあれば読めばできるかのような意識が漂っていた。実は、心した要求が通らなければお断りするつもりで当日手ぶらで参加させていただいたのである。それは自分の店で担当料理長の研修を行なう途方も無いお願いであった。案の定、話し始めてすぐ「何を言ってるんだね。」と一喝された。会議室には唖然とした空気が流れていた。

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「外大で培った反骨精神」

 西洋料理に精通した方々のメキシコ料理に対する解釈が、如何に伝聞に拠る勘違いであるかの講釈を始めた私に、最初は戸惑いを感じた彼らも耳を傾けてくれた。未知の領域の知識に理解を示してくれたのを肌で感じた頃、「だから、チリパウダーなどを使ったメニューを組み入れるのは、ニューオータニの恥ですよ。」とまで言い切ってしまった。講習に関しても「ここのほうが設備が整ってるよ。」とお誘いを受けたが、食材が絡み合う動線の脈絡の中で一品、一品が完結する我が店の現場がベストですと、譲らなかった。失うものなど何も無かった。今想えば、背水の陣で臨む私は、なんと生意気に見えたことだろう。相手側にもプライドがある。当時の意識として、大ホテルの料理人が町場の店で教えを乞うのは非常識であり、屈辱であった。お互い譲らないままに暫し沈黙の時が流れ、会議は平行線のまま流会しようとした時、古谷総料理長から「いいじゃないか、渡辺さんの店に行きなさい。」と宴会担当料理長に命令が下った。取締役からの意見は正に鶴の一声だった。それまでのもやもやした空気が一瞬にして晴れ渡り、5人全員が「それが良いと思います。」と賛成の挙手をしてくれた。

 帝国ホテルの村上氏、ホテルオークラの小野氏に並び、3本の指に挙げられる古谷総料理長の教え子は流石に技術もセンスも卓越した人物だった。習得の速さはレシピだけでなく、材料の持ち味、料理名の意味、一皿の成り立ち、地域性、歴史における時代背景、私が持てるものの全てを注ぎ込んだ3日間の研修時間の濃密さに表れていた。観光大臣や各省の大臣、関係者を引き連れた大統領ご一行200名の来日の夜、ご招待を受けた会場の現場は約30品目のメニュー構成で見事にメキシコ伝統料理一色に再現されていた。明くる日の迎賓館の宴会も好評だった。業界でも話題に昇ったのか、その後、「是非、ラ・カシータの厨房で覚えたい。」と「椿山荘」や「長野観光ホテル」等の一流どころからの料理指導依頼が舞い込むことになる。一途な思いは今も変わらないが、若い頃の自分を振り返るとその無謀さは、京都外大の校風に即した「反骨精神」に基づくものかもしれない。大統領来日から8年後、一通の葉書が届いた。そこには、「今、ロス・アンジェルス・ホテルニューオータニの総料理長の任に付いております。あのときの教えがすごく役立っています。」と彼からの感謝の気持ちがしたためれれていた。

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「十勝、場所と環境ラボラトリー」

 常連客の一人、文化科学高等研究院の山本哲士信州大学教授から「帯広へ行ってみないか?」と声を掛けられたのは、2002年が明けたばかりの頃。彼が手がけている「十勝場所と環境ラボラトリー」の講座で、メキシコ料理を披露して欲しいとの依頼であった。条件はただ一つ、全て十勝の食材を使用して献立を組むことだと聞いた瞬間、料理人魂に火がついた。こんな願ってもない話を断る理由はない。快諾した私は、後日食材のリストを貰い受け、メニュー作りに準備を重ね、3月初旬、まだ雪が残る十勝帯広空港に降り立った。市内へ向かう車の中では、東京とは余りにも違うこの大自然の環境に育まれた食材への期待感に、胸がワクワクしていたのを覚えている。案内された宴会場でサポートのシェフとスタッフの紹介を受けた私は、早速、彼らと仕込みに執りかかる。厨房にはズワイ蟹、十勝牛、仔牛、帯広豚、地元のチーズ、そして、もぎたてのトマトやじゃが芋、玉ねぎ等の野菜類。そこには自分の想像を遥かに超えた、大地の息吹を感じる食材達が揃っていた。感動の出会いと素材を愛しむ気持ちを語りながらの作業が進む内、初対面で心なしか緊張していた彼らとも、調理を通じて心が打ち解け、未知なる領域のメキシコ料理に興味深々の時間が流れていた。

 翌日、会場を埋め尽くした総勢100人のメンバーは、地元帯広の農産、畜産、酪農の生産業者達と飲料関係者。関心の高い方ばかりが揃う中、宴は始まった。ズワイ蟹の身のレモン漬け、グリュイエールチーズの包み揚げ、十勝牛のステーキを挟み込むタコス、地鶏のニンニクとメキシコ原産の唐辛子のオイルソース、青唐辛子風味を付けた仔牛の野菜煮込み、十勝特製のゴーダチーズをふんだんに使ったシーザーサラダ、じゃが芋を薄切りにしたフライドポテトの上には、浅い辛めのトマトソースを絡めた地豚の煮物、トッピングは地産の玉ねぎと生クリーム、十勝牛乳を使ったライスプディング、どの品も一皿ごとに感嘆の声が上がり、賞賛の拍手と共に会は幕を閉じた。終宴後、ご挨拶と握手を求められた多数の列席者それぞれに、料理人として躍動感溢れる食材の提供への感謝の思いを述べている時だった。取材で入館していた十勝毎日新聞社の記者の方から原稿依頼があった。その記事とは「十勝の場所の意志に学ぶ」と題された、4週連続の連載コラム。新しい発見と帯広の食材に対する感慨もあったので、是非、書かせてくださいと快く受諾したが、そのコラム記事がその後の帯広に進展を与えてゆくとは、この時は思いもよらなかった。

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帯広の斬新奇抜な集合体「北の屋台」

 帯広には世界に例を見ない画期的な場所がある。「北の屋台」と名づけられたその領域とは、今までの屋台商売の概念を見事に覆した、斬新奇抜な集合体を構成しているのだ。そもそも屋台という形態は歩道上での営業のため、保管場所と営業場所を毎日往復しながら、手間をかけて組み立て、収納を繰り返し、上下水道を完備していないので、ポリタンクのため水での非衛生的な調理を余儀なくされる。そのためメニューも客に出す直前に熱処理(焼く、煮る、炒める)した温かいものしか提供できない。これらの問題点を克服した人物こそ、北の起業広場共同組合代表、坂本和昭氏。今回の料理講習での世話人、後藤健市氏とタッグを組んで地域再発見を企画、開発している実力者である。彼らがとった方法とは、火事で消失した市場跡の駐車場を安く借り受け、上下水道、電気、ガスの設備を整えた各厨房部分を固定方式にして、そこに移動式の屋台をドッキングさせるという逆転の発想であった。保健所の営業許可の取れる状況は冷蔵庫も設置できて、なま物や冷たい献立も提供可能になり、そして、中央部分には共同の水洗トイレ、雪対策には通路のロードヒーティングを整備、さらに厨房熱を利用した温度管理まで徹底した方式は寒さ対策も万全であった。

 「もう一度、帯広に来てもらえませんか?」。坂本、後藤、両氏からお誘いがあったのは、講習から半年を過ぎた秋口の頃だった。十勝毎日新聞のコラムで触れた食材事情の文脈が、彼らの活動方向と合致した模様だった。簡潔に述べると「十勝ならではの力強さを持った食材達の価値に気づき、究極に活用できる独創的なメニューの開発をする。豚丼も悪くないが、帯広に出向かなければ味わえない十勝鍋や十勝焼きを考案して発信する、それが地域活性化の源となる。時間のかかることではあるが、根強く愛された食べ物が定着して、確固たる信頼を得る食文化が構築され、名物料理が世に知れ渡ってこそ、十勝帯広に誘惑される。その重責を担う、最前線の北の屋台の方々は、最適の発表の場を持っておられるのではないだろうか。」そんな内容だった。今回の依頼は「北の屋台」に参考になる、メキシコ料理講習の要望だった。常日頃、日本の食文化の中に本来のメキシカン・テイストが溶け込んで欲しいと願っている私は、承諾して、後日、再び帯広へ向かった。腑分けされたばかりの部分肉や畑の香り充分の野菜類をふんだんに使った10品目の献立は好評で、約80人を集めた試食会の記事は、翌日の新聞紙面を大きく飾った。これからの帯広食事情に大いに期待したいものである。

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「TODO MUY RICO. PERFECTAMENTE!」

 「個室がありますか?」お客様からのご予約の際、時折質問されることがある。他人に顔を見られたくない、身内だけで気兼ねなく食事を楽しみたい。著名な方々や、雑音の無い場所での接待等、相手方の諸事情はよく理解できる。
残念ながら、ラ・カシータは、備えていないので、これまでご要望を裏切り、断念していただく場合も多々あった。ただ私の持論ながら、人間(生物)の最大の要である食行為は、緊張感の無い中で無防備、且つ、無邪気に没頭できることが望ましいと常日頃考えている。客席のそれぞれの食卓の方々が同じ目線、同じ距離感で食事を楽しんでこそ、お互いに共有できる幸福感が生まれてくる。提供する私達もマニュアルやレシピ通りに調理するのではなく、その瞬間に届けられる美味しさを最大限に表現することが使命であり、厨房の連携が食味を堪能したお客様の感動を呼び起こす基盤だと確信している。手掴みで食するものが多いメキシコ料理だからではなく、気を遣う必要を感じず、自分自身を投影できる食事体系の精神が我が店の一皿、一皿には注入されているものとの自負もある。2002年も深まった秋の頃だった。NHKホールからの予約の電話は光栄な事実を告げていた。「プラシド・ドミンゴさんがそちらの店をご希望です。大事なお客様なので個室がないのなら、目立たない席をお願いします。」生憎、その日は満席状態で、隅の席ならご用意できますと答え、到着を待った。20分後、黒塗りの高級車で現れた一行6名に店内は一時騒然となった。

 ルディアーノ・パヴァロッティ、ホセ・カレーラスと共に三大テノールとして世界に誇るオペラ界の巨星の来店に緊張感は流れたものの、ご本人は、いたって気さくに奥様と身内の関係者を紹介された後、「美味しいメキシコ料理店と聞いて来た。楽しみにしている。」と着席された。私が修行したメキシコのレストランをよくご存知で、ご自身が好みだった献立をいくつか挙げられ、「出来ますか?」と問われたので「勿論!」と受け、前菜のアボガドディップ、マサ(とうもろこしの生地)を小振りに成型して焼いたものに檸檬を付け、豆のペーストや煮たトマトのサルサを乗せたソペス、トルティージャのスープ、海老のガーリックオイル炒め、牛フィレ肉を帯状に広げて焼いたタンピコ風ステーキ等、終始ご満悦の表情で召し上がられた。「如何でした?」への返答は「TODO MUY RICO. PERFECTAMENTE!(すべて美味しい。完璧だ!)」の賛辞を頂けた。後に知ることになるが、1955年、メキシコシティの国立音楽院で学び、4年後のデビュー以降、メキシコシティに住居を構え今に至る彼に、今回のコンサートを手伝った日本人のスタッフ(常連の顧客)から推薦があったみたいである。「今度はここでPARTYをやりたいな」と大満足で帰られた。1ヵ月後、スペイン語で歌われたCD、3枚がサイン入りで感謝の言葉のカードと共に送られてきた。

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「“チェリー”はスペイン語で“セレサ”」

今回は現在の場所でのオープンに至るまでの経緯を振り返ってみたい。結果的に8ヶ月の休業を余儀なくされた期間、再開を待ち望むたくさんの顧客の方々の数々の助言に勇気を頂き、さらなる未来への希望を与えられていたが、見えない将来への不安を胸に不動産屋を巡る毎日が続いていた。まだ携帯電話もパソコンも無い時代、ご紹介を受けた店舗物件は、恵比寿、中目黒、広尾と近隣のものばかりで、どうしても代官山に固執していた乗り気にならなかった。しかし、古くからの住宅街には雨後の筍のような現象は期待できず、微かな焦りも感じていた。数ヵ月後、吉報はご近所の方からだった

「知り合いの親が亡くなった。相続税支払の為にテナントビルにするらしい。」早速、出向いた先は、以前の店から徒歩5〜6分の距離。同潤会(どうじゅんかい)のアパートを挟んだ裏手だった。願ってもないその候補地は、まだ設計図ができたばかりで、一般に公募はされていなかったが、その日のうちに契約を申し込んだ。街灯も無く、夜になると真っ暗でひっそりとした一角だったが、ラ・カシータの道程に一筋の光明を見出せた瞬間だった。その後、アドレスの建設と共に、道路が広く整備され、ビルが立ち並ぶ一等地に変貌していくとは、この時代はまだ知る由も無かった。

代官山の風情を色濃く醸し出す、同潤会アパートの側に恵まれた場所を確保できた私は、旧山手通りの店のイメージに近い形の再現に強い思いを馳せていた。違法と知りながら、契約の坪数では足りない分の床面積の増築をビルのオーナーに哀願したり、設計者には申し訳なかったが、テラスを作るために壁をぶち抜く相談をするといった傍若無人の振る舞いを思い返せば、かなりの強情者だったようだ。熱意(?)は受諾され、順調に工事が進む中、オーナーと間近の完成を祝い、2人で食事をする機会があった。その席で新築ビルの名称を聞かされた。

「チェリー代官山にしようと思っている。」亡くなられたお父上が山形出身、果物屋を始めてさくらんぼで成功して、この土地を残してくれたとのこと。思いは理解できるが、少し違和感があったので、「スペイン語でチェリーは『セレサ』って言うんですよ。」と提案してみた。「いいね!いいね!響きがいいね!」と至極ご満悦で、こうしてビルの名前はセレサ代官山に決定した。好都合な事に代官山駅改装のために、すぐ横に駅が仮設され、オープンと同時に店の存在を知らしめる状況に繋がってゆく。建築段階から関与できたおかげで、ほぼ理想通りの形で新たなるスタートを切る次第になったことは、自身の思い入れだけでなく、何かしらの巡りあわせの運を感じている今である。

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「命ある限り、メキシコ料理探求を!」

セレサ代官山店の工事に平行して私は更なる活力充電のため、メキシコへ旅立つ準備をしていた。同行を希望した店長の松田、料理長の市川と共に各主要な街を巡る計画を立てる中、それぞれの地域のレストラン、市場、定食屋、タケリアに育成された食の根拠に迫り、それを探るべく旅にしようと、旺盛な探究心にそれぞれの思いは膨らんでいた。オープン2ヶ月前の頃だった。

太平洋岸、アカプルコに降り立った私達は休む間もなく、即、街へ出かけた。、手にはノートとカメラ、数件の店で地元のシーフード料理や定番の皿を注文する度に写真に撮り、スケッチを描き、食材、調理法の印象と味の感想を書き込んでゆく。3人だと数多くのメニューを食せるのでかなりの種類の分析が可能だった。全員、観光気分に浸ることなく、真摯な態度で食の探索に励んでいたが、久しぶりの訪墨に私の心は弾んでいた。3日後、メキシコシティに移動。早速、師匠(Gabriel)の元を訪ねた。

彼は突然の来店に驚きながらも、満面の笑みで私を抱擁し、再会を喜んだ。伝統の味を堪能する中、撮影の許可を得、メモを取り続ける私達に、調理の合間を窺い、側で解説を加えてくれた。「厨房を見たい」という要求にも、快く、仕事場を隈なく案内し、私達に存分に知識を与えてくれた。その姿に同行の2人も感動を覚えていた。

偶然、高校時代からの朋友、中本が、大手商社の財務の長としてシティに赴任していた。家族は6ヶ月後まで来ず、単身で寂しい生活を送っていた彼は、外地での出会いを悦び、事あるごとに逢いたがっていた。滞在中、老舗の名店での食事の後、一晩泊めてもらったが、寝室は3つ、バスルームも3つ、広いリビングは2つ、キッチンやメイドルームなど、日本では想像もつかないほどの環境に一人で住んでいた。部屋の間取りを案内した後、彼は余程うれしかったのか、子供のようにはしゃぎ、2人で酒を酌み交わしながら会話は明け方まで尽きることはなかった。

それからの行程は銀の里、タスコからインディオ文化のオアハカへ渡り、スペイン軍上陸の拠点となったベラクルスからマヤの聖地、メリダへと旅は続き、最終地、ロス・アンジェルスでのTEX-MEX料理に至るまでの3週間の旅程は無事終了した。この時の経験が以後の講習や料理本編集に際し、すこぶる貢献したのは言うまでもない。先日、中本が亡くなったのを知らされた。10年ほど前にも市川が病で逝ってしまった。同士を失う、人の世の儚さを想いながら、命ある限り、更なるメキシコ料理探求の道筋を邁進する気持ちでいっぱいのこの頃である。

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「稲川淳二とラ・カシータ」

渋谷公園通りのラ・カシータは、1年半の短期間ながらも思いの外、顧客の心に印象深く捉えられていたエピソードがある。当時の客層を振り返ると、NHKの美術班のスタッフや寺山修司氏率いる劇団「天井桟敷(てんじょうさじき)」の団員の方々、桑沢デザイン研究所の教授や学生達等、時代の表現者の面々に相通ずる何かを感じ取って貰っていたようだし、毎月のように受ける取材も、若者のアンテナ雑誌である「平凡パンチ」、「プレイボーイ」、「GORO」など、まだ見えない遥か未来へ向かって自分の思惑に準じた「時代の要求の波」に揺り動かされていた。当の私は無我夢中で一瞬の時を走り抜けたくらいの記憶が断片的に残っているだけだが、2003年、夏、意外な事実を知ることになる。ファッション雑誌「GINZA」の特集、都内厳選15軒のメキシコ料理店の取材を終え、製本された他店の紹介記事を閲覧している時だった。世田谷区、桜新町の「トミ田ヤ」の店主のコメントに、最初はうどん屋になるはずだったが、「今はなき渋谷のメキシコ料理店の味が忘れられない」との思いで、メニューはケサディージャ等の軽食の他、メキシカンうどんも発案されたとあるではないか。表現の余波が生み出した影響の道程は、私にとって正に光栄の至りであった。

同じ年の秋、TBSの朝の番組「暮らしの便利帳」の収録があり、家庭の冷蔵庫にある食材で作るメキシカンテイストの一皿を撮影している時だった。水抜きした豆腐をフリッターに仕上げ、青唐辛子を効かせたトマトソースに絡めた一品はディレクター女史の眼鏡にかない、放映の後、ご本人はすっかり我が店の献立の虜となって通う日々が続いていた。ある時、「どうしても連れて行きたい友達がいるんだけど、固辞されているのよ。」と残念そうに話された。聞けば、「稲川淳二って知ってるでしょ」彼が、「自分が若い頃食べた公園通りのメキシコ料理店の味を越える店などあるはずが無い!」の一点張りなのよと。即座に蘇る記憶があった。27年前、その頃、桑沢デザインの学生だった彼はよく店に顔を見せていた。事情を説明して一週間後、女史と共に来店した彼は、まるで同窓会の如く懐かしみ、味が変わらぬ事に驚き、浸りきるほどに種々の料理を堪能してくれた。女史の面目躍如の然ることながら、時を超えて紡がれる味の記憶の絆に万感胸に迫る思いであった。後日、彼はホームページ「心霊現象」のブログで店の存在を語り、新たなる客層を増やしてくれた。

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「岸朝子が選ぶ名店 ラ・カシータ」

料理には性格が出るとよく言われる。実際、同じレシピでも作り手によって味が微妙に変化するものである。ましてや、創作料理ともなれば如実にその傾向が現れる。伝説の「料理の鉄人」の収録時に印象的な出来事があった。与えられた1時間の枠内で、題材の「マンゴー」をお互いにできうる数の全ての皿に使い込まなければいけないルールである。調理スタートの合図の声に、駆け登った壇上に山積みされた厳選のメキシカンマンゴー、フィリピンマンゴーはどれもが芳醇な香りを放っていた。皮を剥ぎ、実を取り出す作業の中で、一瞬、頭に過ぎったのは、使う量を適度に判断しないとマンゴーだけが主張する危険性の思いであった。他の食材との配合バランス、加熱の具合、何もかもが現場の裁量に委ねられていた。失敗したらやり直す時間は無い、緊張を超えて自身の気持ちは「美しい皿に仕上げてあげる」の楽しみに変わっていた。終了1分前に出来上がった6品は、アワビのテキーラ蒸しにアボカドとグリーン・チリ、マンゴーを合わせたソース、食用サボテン入りのマンゴー炊き込み御飯にチレ・ハラペーニョとトマトのソース、松の実、マッシュルーム、マンゴーを刻み込んだ赤ピーマンの豚肉詰めにチレ・チポトレのソース、牛フィレ肉のマンゴーモーレソースにマンゴーで練った生地のトルティージャ添え、フレッシュマンゴーとテキーラのライム入りカクテル、デザートはマンゴーの胡桃ソースがけ、どれもが新しい友達(マンゴー)を迎え入れたメキシカンテイストに成り立っていた。

審査は放映では2分程に編集されたが、40分かけて丁寧にそれぞれの献立にコメントが語られた。岸朝子先生、加納典明さん、高田万由子さんら委員は個性ある唐辛子の持ち味に驚き、味の妙味に感動し、全員一様に辛いばかりと思っていたメキシコ料理がこんなにも味わい深いものだとは思わなかったと評してくれた。一方の鉄人、神戸勝彦氏はその卓越した技量と調理センスで満点を獲得したが、どの皿も攻撃的過ぎるとの言葉も出た。2点差で終結した勝負はともかく、マンゴーを制した充足感に浸りながら帰ろうとした時のことだった。「渡辺さん!」、後ろから呼び止めたのは岸朝子先生。「あなた、覚えてらっしゃる?20年前のこと」。何のこと?聞けば、料理記者時代、当時のラ・カシータを取材したときの話で、「メキシコ料理の解釈で随分とあなたから説教されたの」とのこと。勿論、覚えてはいなかったが、その頃、年間40〜50件程度の取材相手には、かなり攻撃的、且つ、威圧的に立ち向かっていたと記憶している。岸先生は「でも今日の料理はどれも優しい味で、全部美味しかったわ」とつぶらな瞳に笑みがこぼれていた。一週間後、先生が主宰する雑誌から[岸朝子が選ぶ名店]の取材依頼の連絡が入った。

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「ラ・カシータでの葬儀」

美味しい食卓を囲む家族、メキシコ人は一家団欒を大切にする。午後の食事が正餐の習慣であるメキシコでは昼の休憩が3〜4時間あり、仕事場から家に戻り、それぞれの祖父母、父、母、子供達が揃って、多い家庭では10数人が和むひと時を過ごす。子供の誕生日ともなれば、そこにご近所が加わり、イベントさながらの光景が日常茶飯事である。家族や近隣愛の絆は人間が生活を営む、最小にして最大の心の拠り所と感じてきた。帰国して、ラ・カシータを創業した頃、お客様に対するスタンスはそうありたいと願っていた。いつの日か時は過ぎ、顧客との親愛も深まり、近来では3代に渡って孫まで連れてこられる方々も多くなった。30余年の店の道程に帯同してご自身の人生の一環を重ね合わせている風にも見受けられれる。そんな折、かかってきた電話に驚いた。2006年、夏の事であった。なんとラ・カシータで葬儀を行ないたいとのご依頼であった。遠慮がちに「可能でしょうか?」と受話器の声は尋ねていた。無論、曾て経験の無い要望に戸惑いはあったが詳細を伺うと、親戚はちゃんとした斎場でやるべきだと猛反対しているが、亡くなられたご主人が店が大好きで、家族で食事をした時間が一番思い出深く、故人が一番喜ぶ場所で偲びたいとの主旨だった。

後日、ご子息2人と共に来店された夫人は開口一番、「お願いします!賛同しない親戚共は参加しなくていいんです。」と話し始めた。その強固な気持ちに思わず、「ご主人は何がお好きでした?」と聞いてしまった。自分の献立はわが子のようなもの、愛おしく思われたなら、大満足である。「やりましょう!」即断だった。1ヶ月後の当日、店には黒い幕がかかり、テラスに設えた溢れんばかりの花の祭壇には故人縁の品が並び、中央には大好物だったメキシコの卵料理、ウェボスランチェロスが置かれていた。読経の後、式典が進行する中、好きだったラテン音楽の選曲が流れ、ワカモーレ、ケサディージャ、海老のにんにく炒め、エンチラーダス等の好物メニューが参列者、約60人に提供されていった。遺影の前で一人ひとり、交互にマイクを持ち、思い出話を語る姿に、承諾して良かったと私自身の心も安堵していた。人の命に限りはあるが、時空を超えて脈々と受け継がれてゆく行程に、メキシコ料理の味の記憶だけでは無く、家族が集う幸福感が寄り添うものだと実感した。晩秋の頃、遺骨はサンフランシスコ、ゴールデンブリッジにて散骨された。

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TV番組「愛の貧乏脱出大作戦」

仕事柄、TVの料理関連のものはよく見るほうだ。1990年代の番組の一つに「愛の貧乏脱出大作戦」があった。ご記憶の方も多いと思うが、流行らない店の料理人を厳しい修行で教え込み、繁盛店に導く名番組である。怒鳴られたり、叩かれたり、余りの辛さに逃げ出しても、周りの適切な助言や本人の切実な嘆願で、何とか這い上がり、ようやく達人のお墨付きを貰い、改装費も局持ちで再会した店は初日から多額の売り上げを示し、視聴者の感動を呼ぶラストシーンが定番だった。ある日のこと、突然の出演依頼の連絡に私は戸惑いながらも、「ラ・カシータの厨房は和やかな雰囲気なので番組の主旨には適しません。」とお断りした。2度目の電話も同様に「他の店でやって頂きたい。」と申し上げた。しかし、どうしても渡辺さんにお願いしたいとしつこくかかって来るので、訳を尋ねると、当人はメキシコ人で、しかも、閉店に追い込まれている状態だと・・・。どこの誰だか知らないが、メキシコ料理の発展には由々しき事、持ち前の使命感が鎌首をもたげて来た。一度お話をお伺いしましょうと、後日、スタッフに見せられた彼が作るタコスやスターダスの写真は、案じたとおり、トルティージャも具材もサルサもいかにも不味そうだった。その瞬間、奇妙な責任感に揺さぶられながら私は決断した。

動き始めた救出作戦の意見の一つでチョリーソ(腸詰め)を希望したディレクターにある提案をした。本国と同じものは難しいので、出汁の旨みが出る3種類のメキシコ唐辛子とニンニクをそれぞれソーセージの叩いた肉に練り込んだ、独自の創作性があるものを作ろうと。清里高原にある専門の工場で調理修行を終えた彼が持ち帰った腸詰めは素晴らしい出来映えだった。彼の名はゴメス・ヘスース、愛する日本人の奥様と可愛い3人の娘のために死ぬ気で頑張ると約束してくれて、収録は早朝7時からスタートした。大学の学生食堂での体験しかない彼の包丁技術は未熟で、サルサやトルティージャの基本的な事から教えながら、数種類の定番料理と腸詰めを使ったオリジナルの一品が完成したのは、日付が変わった朝の4時だった。営業しながらの指導はたいへんだったが、その間、カメラは止まらず、スタッフ一同の根気に感心した。試食で判断される本番のスタジオでは、ゲスト達の評判も上々だった。「まだまだ」はブルーで、「もう大丈夫」はオレンジで行く末を判定する参列者の意見は、全員一致のオレンジだった。店名を「バレンケ」と名付け再スタートした当日、それまで月商7万円くらいの売り上げが、その日だけで14万円を数え、その月から毎月300万円以上を記録するようになった。後日談だが、関係者から、番組史上初めて優しい指導だったと声が寄せられたと聞かされた。

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メキシコ料理の「街の巨匠」

1993年、初夏の頃だった。料理番組としては現在も異例の長寿を誇る「チューボーですよ」のスタッフから出演依頼の連絡を受けた。お題は「牛肉のタコス」、心が弾んだ。初めてメキシコ料理に照準を合わせ、着目してもらった事に感謝しつつ、打ち合わせが進む中、「他の店はいったいどこが選ばれたのだろう?」と少し気になっていた。複数のコーチが携わる形式の制作状況の下、店の名も、使われる食材の構成や味付けの組み立てに関してもお互いの店の情報は知らされず、個別の店舗ずつロケが行なわれ、更に後のスタジオ収録時にも、どの店の方法がベストとされるのかもいっさい明かされない。ある意味、テストを受けるような心境になっていた。撮影の当日を迎えると更に驚いたことに、照明、音声、カメラマン、リポーター達、それぞれ10人以上のスタッフが取り囲む状況で、調理指導のコメント、食材を扱う手元のアングル、カメラの位置等を細かく変え、丁寧に何度も繰り返す。サルサを作り、トルティージャの生地を練る、伸ばして焼き、炒めた牛肉を乗せる。普段なら30分もかからないことが、終了した時点で実に7時間を経過していた。一ヶ月後の放送を心待ちにして充足感に満ちた疲労を感じながら収録は無事終了した。

この番組では和食、中華、洋食、イタリアン等、歴代の名シェフ達がそれぞれの技を数多く披露してきたが、メキシコ料理業界にはどんな「街の巨匠」がいるのか?生意気なようだが、お手並み拝見とばかり楽しみに放映を見た。他の店も基本に忠実に再現を試みているが、堺正章シェフが進行している手順は、そのまま、ラ・カシータのレシピが取り入れられている。特にトルティージャを作る行程の部分では、他店を圧倒して我が店の厨房が取り上げられた。思わず嬉しくなった。自分はスタジオにはいないが、まるで共に作業をしているような錯覚に陥るほどだった。このまま進めば美味しさに確信が持てたが、もう一つの難関がある。ゲストが果たして幾つ星をくれるのか?堺シェフの技量とセンスに任せるしか無い。判定の時が訪れた。ゲストの口からこぼれた言葉は、「初めてタコスを食べたけど、こんなに美味しいとは思わなかった、三ツ星です!」気がつけば、TVの前でガッツポーズをしていた。その後、エンチラーダスや別種のタコスで2回出演する機会を与えられたが、両方とも他店の追随を許さず、店のレシピ通り作業は進み、それぞれの判定も星三つだった。番組史上の記録ですと後に局から知らされた。

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“縁”時代を超えた店の存在

2000年、夏の頃、TBSからの番組出演依頼が舞い込んだ。人気絶頂の「はなまるマーケット」からである。先方の依頼は生番組のランチバトル、僅か制限時間10分で一品を仕上げる難度の高い企画のコーナーである。今回は自分ではなく、若手シェフにとの要望で、厨房を仕切る若干29歳の料理長、田中勝則を推薦することになった。メニューは本人の希望で短時間でメキシコらしさを演出できるワカモーレを使った、「ソーセージのレタス包み」に決定した。ワカモーレとは青唐辛子を利かせたトマトのサルサを作り、アボカドをペースト状に潰した中に混ぜ込んだ、代表的なソースである。意外な出来事が起こったのは、後日、訪ねてこられた2人のディレクターと食材、手順、店内ロケの打合せを行い、要旨をまとめ終え、2人が立ち上がった時だった。後方の客席から「おい!」と声が掛かった。後に訳を知ることになるが、声の主は「はなまるマーケット」の統括プロデューサー、最高責任者である。2人は驚いて「どうして、こちらに?」と尋ねたが「いいから!」と体よく追い返されてしまった。話を伺うと、「渡辺さんは覚えていないと思いますが、四半世紀前、TBSに入社した頃、初めてデートしたのがこの店なんですよ、だから気になって」との事。客とのふれあいが織り成す縁に時代を超えた店の存在が頼もしく思えた瞬間だった。

縁と言えば、番組の花である岡江久美子さんも当時、後に夫となる獏さんとよく来られていた。いまや伝説となりうる公園通りの店を発端として、旧山手通りを経由し、現在に至る、ラ・カシータは、その時折の時代の表現者達に囲まれ、メキシコ料理を要とした歩みの中で人間模様が育まれた。田中は多少緊張気味だったが、紹介インタビューも無難にこなし、調理がスタートした。許された時間は10分、もともと技量はあるだけに調理行程に心配は無かったが、思った以上に雄弁で驚いた。途中、お湯が沸いていないハプニングも難なくクリアーして見事に時間内で完成させた。岡江さんも「昔はこの店よく行ったのよ。」とのコメントを挟みながら試食タイムへ移行した。薬丸君を始め全員が口々に「美味しい!」と絶賛の声が上がり、評判は上々で番組終了間際にも、もう一度話題にのぼるほどのインパクトがあった。大成功である。放映後、丹精な顔立ちの田中に奥様族のファンが増えたのは言うまでも無い。

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「味の記憶」

幼い頃から大人になるまで、人々に根付く食事における嗜好と云うものは、彼らが育つ地域、環境、時代背景によって多種様々に異なるものである。それぞれの家族の調理に留まらず、外食に見出される新たな出会いの感動、発見が生涯における味覚のアクセントとなって脳内に埋もれている。10年程前、その出来事に遭遇した。来店した30才くらいの男性は小柄な女性を連れ、少し緊張した面持ちは初めてのデートの様子が窺えた。何かを探るようにメニューを隈なく見続けていたので、お勧めの品でも説明しようと側に寄った時のことだった。「すみません、自分が小学校5年生の時食べた物が無いんです。」どんな一品か話を聞くと、思い出す献立があった。豚ロースの一枚肉をソテーして、微量の青唐辛子を効かせたトマトソースで絡めた「豚ロース肉のランチェラソース」と云うもの。食材は厨房に揃っていたので、再生は容易な事だった。出来上がりを卓に運ぶと、彼は手放しで喜び、「これだよ!これが旨いんだよ。」と連れの彼女に何度も大きな声を張り上げていた。彼の得意げな表情を眺めていると、およそ20年の時を超えた味の記憶にラ・カシータの足跡がもたらす意義を改めて感じていた。

そういえば、遡ること30年、俳優の宇津井健さんが初めて来られた時、同じようなことがあった。演技に必要な為、乗馬の修練でメキシコの牧場の留学した折、賄い婦のメキシコ人がいつも出してくれた料理が食べたい、「渡辺さん、出来ますか?」と3品要望された。内の2品、小海老とアボカドのカクテルと海老のニンニク炒め。これは当時のメニューに収まっていた。もう一つは細切りにした鶏肉とスライスした玉ねぎ、ビーマン、チレ・ハラペーニョを炒め合わせたものと、インゲン豆を塩で煮て、潰し、ラードで炒め直したフリホーレス・レフリートス、ワカモーレ(アボカドのディップ)を一皿に盛り付け、それぞれをトルティージャで巻いて食するFAJITA(ファヒータ)というものだった。チレ・ハラペーニョは当時まだ手元にはなかったが、ピーマンの内側にグリーンチリのペーストを擦り付け、少し辛さを補う手法を取って、間に合う食材でお作りしたところ、「この味ですよ、懐かしいなぁ・・・」と子供のような笑顔で満足げに頷いておられた。この時以来、常連客として何度も来られているが、オーダーはいつも前述のものである。

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「宮本美智子女史とラ・カシータ」

1976年7月にラ・カシータを開業して以来、マスコミュニケーションの取材攻撃に恵まれた時代を過ごして来たが、初期のころはリポーターの思い込みに拠る勘違いで思わぬ記事になる事が多々あった。中でも印象的だったのは、1984年に刊行された文藝春秋社の「東京いい店、うまい店」に記載された原稿の冒頭に「日本に“本当のメキシコ料理”をひろめようと決意した京都外語大の卒業生四人組の一人、渡辺庸生の店」と紹介されたことである。確かにその当時、国内の数少ないメキシコ料理店の中で、神戸、大阪、京都に既存した他の3軒は交友関係にある京都外大の先輩方が関わってはいたが、お互いに示し合わせた事実は無かった。唯、このドラマチックな書き出しは余程のインパクトがあったのか、一般のお客様だけに留まらず、当の文藝春秋社の出版局に携わる編集関連の方々が、大挙して来店して頂ける事態となり、正に「瓢箪から駒」状態で、店は連日大盛況の日々を迎えてゆくことになった。そんな頃、編集部が連れて来られた一人に、時の人、宮本美智子女史がいた。文才豊かな彼女は多岐にわたって執筆していたが、ベストセラーとなった「ニューヨーク人間図鑑」は余りにも有名である。

人生のパートナーである日本有数のイラストレーター、永沢まこと氏の絵と共に綴られた前述の一冊は、活字であるにも係わらず、まるでライブ映像を見る感覚で捉えられる。因みに1979年に出版されたこの本の中に初めて「エスニック」という単語が登場する。ニューヨークに10年滞在した宮本美智子女史はメキシコ料理通として自認されてはいたが、有難いことに、ラ・カシータに出会ってからは発見の連続だと感激し、幾度も来店する度にお仲間に自慢するようになり、ついにはメキシコに旅立つことになる。現地で食べ歩いて来られた後も、「メキシコにも美味しいものがいっぱいあったけど、私はこの店の味がNO.1だと思う。」と語ってくれた。ニューヨークにあるザ・ニュー・ミュージアム美術館の国際部長を勤める彼女は、アメリカの美術誌に数多くの執筆をしているが、機会があれば、ラ・カシータのメキシコ料理の評論を書いてみたいなとも言ってもらえた。10年程前に亡くなられたが、屈託の無い精神で生涯を全うした彼女に敬意を表したい。頂いたサイン入りの著書と永沢氏直筆のメキシコ闘牛場のスケッチは今も大切に部屋に飾ってある。

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「完全アウェーの山王ホテル厨房にて」

本国の伝統料理とTEX-MEXの違いについては以前に記述したが、現実はまだまだ厳しいものがあると実感している。店を継続して35年の歳月(2011年8月現在)を数えるが、つい先日もアメリカやフランスの方々から立て続けにクレームをつけられた。ナチョスやブリトーが無い、タバスコを置いていない、料理が全然スパイシーじゃないと双方ともかなり気分を害して帰られた。首都パリにある既存の店もUSAスタイルらしい。日本人のお客様には丁寧にご説明すれば理解を得られるのだが、思い込みの強い外国の方は権利の主張が激しく、なかなかスムーズには進まない。旧山手に開店して7年もたったころは世界各国のお客様に支持され、大盛況の毎日を過ごしていたが、それほどのトラブルはなかったと記憶している。おそらく、インターネットの情報検索の無い時代であったため、クチコミで味の評判が伝わり、顧客は期待感を胸に来店してくれていたはずである。とある日の事、長身のアメリカ人の男性からケータリングの話を持ちかけられた。自身が勤務するホテルで200人くらいの規模で計画していると。名刺の肩書をみて驚いた。山王ホテルマネージャーと記してあった。戦後、米国が管理する米軍関係者の為の施設で、成田を通関せずとも横田基地から直接入国して宿泊できる、日本人入管御法度の場所、正に敵地ではないか。断ろうと思った。

だが、彼の「こんなに美味しいメキシコ料理を皆は知らない、だから、是非、作って頂きたい!」との執拗の願いに根負けした。天現寺の交差点から六本木方面へ向かった左側にあるそのホテルに打ち合わせに訪れた私は、中の設備に、またもや驚かされる。映画館、ボーリング場、ショッピングセンター等、何もかもが揃っていた。料理長を紹介され、挨拶を交わし、いい機会だと思って、オーセンティックなメキシカンの実体を説明し、いっしょにやりましょうと協力を仰いでみた。意外に冷たい返事が返ってきた。場所だけを提供するから勝手にやってくれと。初めての調理場、ましてや他人のもの、やりづらいこと此の上無い。当日、スタッフ8人を引き連れ、広い厨房の一角で仕込みを始めた私達に無関心を装う現場は、完全アウェーの張りつめた空気が流れていた。前菜、軽食、メイン料理、およそ10品目の献立を順に会場に搬送し、盛り付けが終わろうとした頃だった。ふと振り返ると料理長がいた。「いい匂いだね、全部美味しそう」と声をかけられた。20才くらいも年の違う若造がどれだけ偉そうにと思われていたみたいだが、そこは同じ調理人、仕上がった皿が全てを物語るのか、いきなり、握手を求められた。心の中に何とも云えない安堵感が広がっていった。

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「料理店の定評を得る指針〜夢の実現〜」

料理店を志した限りは味の旨さを誇示したいのが料理人としての本音であろう。そこには万人が期待する一定水準を遥かに上回る現実を突き付け、相手に思わぬ感動と発見を知らしめる結果に導くことが求められる。だが、「言うは易く、行うは難し」でなかなか思い通りにゆくものでは無い。旧山手通りに開店した頃、自分自身の力量には確信があったが、果たしてそれが通用するものかは、手探りの状況の日々が続いていた。定評を得る指標として、当時、一つの憧れがあった。それは美食を追及する雑誌のページやTVの料理番組のコーナーに取り上げてもらう夢だった、その頃の時代風潮はフランス、日本、中国料理が主で、たまに洋食、インド料理が挟まれるくらい、イタリアンでさえも皆無に近い取材範囲で構成されていた。そんな折、毎日新聞社からの一本の電話が幸運を告げて来た。グルメ評論の第一人者、荻昌弘氏が連載するサンデー毎日の一頁の取材依頼であった。タイトルは「味で勝負」。全国津々浦々の覆面取材の下に候補が上がり、荻先生らが試食に出かけ、OKがでるとようやく編集部とご本人が動く、実に選考基準の高いものだった。時は1980年の春、この大きな出来事が更なる好運を呼び込むことになる。

テレビ東京の看板料理番組「すばらしい味の世界」からの撮影依頼は、その年の初夏の頃だった。超一流の店しか選ばれない、正に雲の上の存在からの知らせに驚きを通り越し、厨房のスタッフ全員は沸き立っていた。後日の打ち合わせで7回の放映分、前菜、軽食、一品料理まで計7品目を決め、収録の当日が来た。都内のスタジオを貸し切り、静寂の中、カメラは回り始めた。最初の献立は、蛸のレモン漬け。お茶っ葉でボイルした真蛸を薄切りにしてレモン果汁に浸したものに、玉葱、青唐辛子、トマトを粗微塵に切り、オレンジ果汁、青采と共に混ぜ合わせ、塩で調味する。トマトを主に玉葱、ニンニク、青唐辛子を加えたサルサを作り、とうもろこし粉を練り、薄く円形に伸ばし、トルティージャを焼く。数種のチレをラードで焼き、ゴマ、アーモンド、干し葡萄、チョコレート等でモーレソースを仕上げる。トルティージャを三角に切ったものをラードで揚げ、トマト、鶏肉、チーズで煮込む。牛フィレ肉を帯状に切り開いたものを塩で焼き、アボカドが主のワカモーレを添える。汗をかくほどの照明の中、全ての工程にカメラはアップで迫り、音声マイクは海老がフライパンの油に跳ねる音、下駄を履かせたまな板で包丁が食材を切る小気味よい響きを捉える。朝一番に始まった撮影は気がつけば夜になっていた。調理音を重視した伝説のこの番組を超えるものは今も無い。

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「トルティージャの焼き方を教えてくれませんか」

1990年代ほど、わが国で料理人が持て囃された時代は無いのではないだろうか。TVの各局は早朝から深夜まで連日のように料理番組を放映し、ワイドショーやバラエティ枠にも特選コーナーを組み込むほどに視聴率を競っていた。こんな現象は世界でも例が無いと当時の取材で聞かされた覚えがある。思い起こせば、学生の頃、アルバイトをしていた神戸のレストランのシェフに「将来は調理人になりたい。」と夢を打ち明けたところ、厨房の職人全員に囲まれて、「バカな事は考えるな!」と一喝された。職業に貴賤の区別は無いはずだが、この時代の調理人の社会的評価はまだ低かった。大学まで行っているのにと、自分たちの給与明細まで見せて、過酷な就労状況を話され、考え直すよう強く諭された。1970年の秋の出来事だった。あれから時は流れ、まさかこんな世が訪れるとは、自分を思いやってくれた先輩達にも想像出来ないことだっただろう。90年代はバブル経済が崩壊し、企業の安定性が揺らぐ中、手に職を持つための各種専門学校が見直される風潮に代わっていた。その頃、絶大な人気を誇っていた日本TVの料理番組、「どっちの料理ショー」から出演要請の依頼が舞い込んだ。この番組は、似て非なる2つの料理を取り上げて、特選素材を軸に思い切り贅沢な皿に仕上げ、両方食してみたいが、どちらか一方にゲストの多数決で決まり、少数派はお腹を空かせたまま見守るという残酷な状況でラストを迎える、未練たっぷりの筋書きで毎回構成されていた。

品目は「生春巻き」VS「タコス」。スタジオでの調理人はエコール辻東京の教授達。大阪あべのに本校を持つ、料理学校の東大とも称される辻調理師専門学校の東京本陣の要達である。自分の役割は番組進行の中でタコスの醍醐味をアピールする「美味しい応援団」のロケ部分であったが、以前からひとつ心に抱えているものがあり、どうしてもそれを云わずにはいられなかった。店の厨房で収録が進む中、製作スタッフにお願いをしてみた。数年前の「太巻き寿司」VS「タコス」の放映の際、トルティージャもサルサもワカモーレも全然美味しそうで無く、納得のゆくものでは無かった、一度教授に逢わせて頂けないかと。数日後、スタッフと共に来店した担当教授にタコスを食してもらい、生地の重要性、唐辛子の的確な使用法、食材の成り立ち等説き、王道のメキシコ料理の表現を真剣に嘆願していた。TEX-MEXに偏りがちな思考経路に一石を投じないとの思いに強く駆られていた。1時間も過ぎた頃、教授が口を開いた。「厨房でトルティージャの焼き方を教えてもらえませんか。」失礼な言い方だが、この時ほど相手が可愛く思えたことは無い。放映当日、教授が作るタコスはいかにも美味しそうで番組は最高潮の盛り上がりで終結した。

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共立女子大の授業名は「国際文化持論―食文化を考える」

旭屋出版からの2冊目の依頼は当初、タコスとサルサだけを簡潔に纏めたい意向で編集会議が行われた。ページ割りの分類が進む中、胸の内に込上げるものがあった。それは主食であるトルティージャを基点とした歴史的背景における地域性である。1冊目はメキシコ全般の代表料理を網羅した内容であったが、もう少し掘り下げて、一体いつ頃からトウモロコシや唐辛子が出現し、どの地域でどんな種が根ざし、それぞれの集落に根付いたタコスの成り立ち、時代とともに変貌した具材の妙味、大地の恵みに培われた各々の食材の活用等、調べてみたい項目は山ほどあった。アメリカ穀物協会やメキシコ大使館を通じて農林水産省の資料をいただき、蔵書を軸に検証を追い求めた結果、近代の料理の一皿ごとの生い立ちが解明され、約1年の期間を要したが十分満足のゆく専門書に仕上がった。その2か月後、来店した妙齢の婦人から「渡辺さん、貴方よく勉強してるわね。」と言葉をかけられた。黒田悦子と名乗る女性の身分を明かされて驚いた。国立民族博物館の名誉教授の肩書、東京大学のメキシコ民俗学の現役教授とある。同行のもう一人の教授に「貴方もこの本、買いなさい。」と購入を勧めるくらい褒めていただけた、光栄、身に余る瞬間の出来事だった。

半年も過ぎた頃、その相手の教授から電話がかかってきた。なんと授業をお願いしたいとの要望である。場所は共立女子大学、国際学部の本館。大学の特別講師の役割など思いもよらないことだったが、弾む心で快諾した。当日は料理人への気遣いか、学部長らと近所の店でランチも予約されていた。神保町のあたりはカレーの店が多く、その中でも漫画「美味しんぼ」にも登場した名店に案内された。美食の馳走を受けた午後、総勢67名の3年生の生徒、教授数名も加わった教室で講義が始まった。授業名は「国際文化持論―食文化を考える」。如何にも仰々しい表題だが、普段通り臆することなく話は進み、一人として睡眠をとる者がいないまま90分の時が過ぎた。チャイムが鳴ったので「これで終わります。」と頭を下げた時だった。思いがけず全員から拍手が巻き起こった。意外だった。数々の文化セミナーでは経験したが、まさか大学の授業で・・・。嬉しかった。その気持ちが「有り難う!みんな、内定を貰えなかったり就職活動は大変だろうけど、今こそ自分の疼きに気付いて仕事を探して下さい。」と励ましていた。再び大きな拍手に包まれた。感無量である。終了後、教授室に何人もが質問に訪れた。

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「胸に残る常連客の笑顔」

飲食店を営む上で、「お客様は神様」と崇め、顧客名簿を作成し、勤務先、趣味、好み等を了解しているのは常識。ましてや、数十年の常連客ともなれば相手の素性を充分に把握し、長期間我が店を熱愛していただける気持ちへの感謝を込めて、より一層の接客に心掛けるはず。ところが、私の場合、誠に申し訳ない事実だが、殆んどの顧客の氏名、職業等を認知していない。家族や友人と食事に来られた方々と名刺交換など皆無に近いし、電話で予約を受けると名字くらいは判るのだが、目前の皿に没頭されている相手に立ち入る詮索の話には発展せず、大抵は料理の味自慢かメキシコ食文化の講釈で盛り上がってしまう。この30余年の間、この連載で記述しているエピソード等で話題には事欠かないままに顧客との連携は継続し、今更、私的な情報を聞き出せない事態に陥っている次第。唯、何かの切っ掛けで、相手の立場が判明し、びっくり仰天する場合も多々あった。2002年の夏も終わる頃、顔馴染みの外国人が来店した。国籍(たぶん北ヨーロッパ)も名前も不明だが、20年以上の常連で、一時期は毎日のように来られていた。食事の最中、珍しく席に呼ばれ、相談を持ち掛けられた。自分の企画しているイベントに出店して欲しいとの依頼だった。

その催しとは「electraglide」。毎年、幕張メッセで行われるテクノポップのライブコンサート、約2万人のファンを終結させる大イベントである。想像を絶する規模の話に訳を尋ねてみると、前回までのアーティストの評判は上々だったが、飲食のブースは不味いと散々の不評の嵐。「そこで今回は自分が美味しいと思う店ばかりを選びたい、厳選8店舗の中で、第一候補がラ・カシータです」と力説された。店のスタッフとの協議の結果、「若鶏と野菜のタコス」1種に絞り、2か月先の開催へ向けて準備が始まった。一晩に数千人もの客を相手にする仕事は未経験だが、味を絶賛された限りは妥協は許されない。アルバイト人材の確保、調理機材のリース、飲み物、食材の大量発注、決め手のサルサ・チポトレの仕込みだけでも400リットルを遥かに超える。当時のスタッフ達の絶大な結束力の元、無事当日を迎えた。店に残留部隊を残し、未知なる偉業への闘志に燃えながら会場へ出発したのが午前10時、ブースでの装備を整え、夜6時の開演を待つ。休憩タイムの瞬間、一度に数百人の列が並ぶ、手渡しで、分刻みでこなす作業が限りなく続く。幾度も押し寄せる大波を乗り切り、終了したのが、午前7時。本部からの報告は集客も売り上げも他店を押さえ、第1位を獲得していた。その後、店を訪れた彼の賞賛の笑顔がまだ胸に残っている。

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メキシコを旅立ち日本で成熟した唐辛子「栃木三鷹」

メキシコ料理の要として君臨する唐辛子の類は、自国だけでも優に100を超える。1492年、コロンブス上陸後、海を渡ったそれらは今や全世界に分布し、姿形を変え各国に子孫が繁栄している。我が国でも数多くの種が現存するが、中でも「鷹の爪」の名称で知られる赤唐辛子が最も一般的ではないだろうか。この種の最高品質を誇る「栃木三鷹」を生産している、栃木県、大田原市。「とうがらしの郷づくり推進協議会」が発足して以来、毎年「全国とうがらしフォーラムin大田原」のイベントが行われている。調理のお誘いを受けたのは、2010年の夏も終わる頃。例年、調味料や製菓等、製品化されたものを中心にアピールしてきたが、今回はメキシコ料理で三鷹の個性を表現して頂きたいとの依頼だった。食材のサンプルを味わった時、望郷の念にかられるかのような思いに身体が反応したのは、本国から旅立って立派に日本の地で成人した唐辛子の熟成の旨味だった。メキシコ伝来の香りや持ち味を覗かせながら、大田原の地の姿に熟成していた。心が弾んだ。これだったら地域カラーの独創性溢れる数種のサルサが活用出来ると確信が持てたのである。100人余の招待客を賄うには、前日からの仕込みが不可欠。胸の高鳴りを覚えながら当地へ向かった。

その日の夜、宴会場の料理長以下、調理スタッフ5人の協力を得て、無事準備が完了した時点で厨房には美味しそうな匂いが漂い、味見を求める関係者で賑わっていた。当日。市長を初め、農学博士の松島教授、善光寺の七味でお馴染みの(株)八幡屋五郎の社長、ハウス食品の商品開発部、流通業所、地元の生産者等、そうそうたる顔ぶれが揃う会場と厨房をTVカメラで中継しながら宴は始まった。一品出し終えるとカメラに向かい、食材の特徴と配合のバランス、大田原の唐辛子の持つ性質と味わいの妙味、メキシカンのレシピの中で融合する和風の成り立ちをそれぞれに解説をしてゆく。地産の豚や牛、鶏肉、卵や数々の野菜類を駆使した献立は出席者全員を魅了したようで、調理後、広間へ顔を見せると盛大な拍手に包まれた。壇上でメキシコの唐辛子文化を語り、質疑応答に入ると矢継ぎ早に質問が相次いだ。流石に関心の高いメンバーが揃う中、丁寧に全てをお答えし、会は終了した。気がつけば、朝、宿で食事をとってから夜まで何も口にしていなかったが、不思議と身体は充足感に満ちていた。近い将来、大田原発信の独自のサルサが地元に根付くことを願ってやまない。

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メキシコ料理に対し、いまだ精進の気持ちは衰えず・・・

メキシコ料理を考察するにあたって、僭越ながら自著以外に日本語の参考資料が乏しいのは寂しい限りではあるが、その分の重責を踏まえて、まだまだ精進する気持ちが衰えないのは恵まれた事例かもしれない。料理教室や地方への調理指導の出張等、必要とされれば所構わず己の力を存分に発揮して、開拓してゆける意欲は充分に備えている。高校の課外授業のお願いを受けたのは、2002年2月に最初の専門書を刊行してしばらくの頃だった。学校名は千葉県立松戸国際高等学校、県内屈指の名門校である。依頼はメキシコ料理を味わいながら食文化の歴史を学ぶ内容で、聴講生は学内サークル調理部の面々だった。季節は夏の訪れを感じさせる週末の午後、顧問の先生、部員、総勢20余名を対象に前菜、軽食、一品等、全て伝統料理に基づいて、時代的背景、地域における食材の特性、スペイン人の到来に由来する融合性、近代メキシコとアメリカ合衆国との交戦における歴史的侵略の影響等、約3時間の講義が終了した時点で、先生、生徒達の目は見開き、食事を遂行する事も忘れてノートに見入っていた。質疑応答にも向学心に燃えた質問が相次ぎ、半ば興奮状態で彼女達は帰路についた。濃密な授業に心を動かされたのか、この出来事が次につながるとは思いもよらなかった。

夏も過ぎた頃だった。顧問の先生からの連絡は「あれから生徒達は盛り上がっており、是非、秋の文化祭でメキシコ料理のフルコースをやりたいので調理指導をお願いしたい、遠い所ですが来て頂けますか?」とのお話だった。快諾した私はスタッフ1名を従え、当日の朝、上野から常磐線を経て新京成線八柱駅に降り立った。構内の調理設備は想像以上に整っており、下級生も含めた部員30余名に対する実習がスタートした。サルサや献立に使う野菜や唐辛子の下処理、メキシカンライスの調理工程に必要な米を油で揚げる下準備、トルティージャ生地の丹念な練り方、それの応用、活用法、鴨煮込み用のサルサの仕込み、デザートの作成等、日曜日丸一日を費やした時間は気がつけば10時間を超えていたが、生徒達の完遂した充足感の笑顔に疲れも忘れていた。彼女達の貴重な小遣いから捻出された心付けのギャラも受け取るのが申し訳ないほどの拍手と歓声の中でなし終えた講習の成果は、後日、招待された本番の会場に見事に表現されていた。料理の出来映えも完璧だったが、所狭しと張り巡らされた蘊蓄を披露する紙には、講義を充分に理解した知識が説かれていて、文化祭ならではの意味のある経験だった。この時の先生や生徒達は今でも店に通ってくれている。

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学術書「トウガラシ讃歌」へのお手伝い

唐辛子の習性は実に柔軟で逞しく、強かだが、時には甘え上手でもある。コロンブスが発見した新大陸からヨーロッパ、アジアにもたらされた食材は唐辛子以外にじゃが芋、トウモロコシ、トマト等があるが、他の野菜と比べておよそ100年も経過しない期間で世界中に根付いてしまった実績と共に、各国の料理に欠かせない脇役として実在している。温暖な気候のメキシコから北欧に居住するとなれば、人間もそうだが身体に脂肪を貯え、コートも羽織りたくなる、それがパプリカ、熱帯の南インドではTシャツで過ごせるように細長く、薄皮にと適応能力抜群の生き様である。又、逆境に強く、タイや韓国、中国四川のような条件の悪い場所ほど(メキシコも石灰質の土壌)己を叱咤激励し、旨味を含んだ持ち味や、より個性の強い辛さが備わるように成長する。肥沃な土地の我国では過保護というか、幼いまま成人したようなものが数多く見られる。又、その強烈な辛味のため、獣は食さないが、痛覚の無い鳥類が常食とする事によって、より遠くの区域に分布された実情が今日の繁栄をもたらせたものと考えられる。国立民族学博物館名誉教授の山本紀夫農学博士から執筆依頼の便りが届いたのは2009年の夏の頃だった。

題名は「トウガラシ讃歌」。企画の趣旨は主食になることの無い唐辛子が世界各地の食文化に融合し、各地の食卓革命に果たした役割を歴史的受容と共に考察したいとの意向が記されていた。構成員を見て驚いた、何かの間違いではないか?総勢20名の執筆者の殆んどが農学、文化人類学において国立大学の博士課程修了の現役教授ばかりである。電話を手に取っていた。「本当に僕で良いのでしょうか?」優しい言葉で返事が返ってきた。「是非、宜しくお願いします。」と。身に余るどころか、天地が逆さまになるほどの光栄な出来事に身体は久々の緊張感と闘争心に漲っていた。ある程度の知識には確信があったが、限られた原稿文字数の中に集約した、ベストの仕上がりに書き上げたいとの思いに検証の日々が始まった。およそ3500年を遡る古代文明に培われた集落における栽培から、多種多様な唐辛子が群生し、マヤ、アステカの古典期には、その地域に根差したそれぞれの種が人々の食を支えていた。提出後、山本教授から満点の知らせが届いた日は、安堵と共に達成感が湧きあがってきたのが記憶に新しい。諸外国にも類が無い、全世界を網羅した唐辛子の学術書のお手伝いができた経験は私自身の誇りでもある。

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ラ・カシータの献立作りの原動力となった食材との出会い

1976年、初夏の頃、私は渋谷、公園通りの店の開店準備で慌ただしい日々を過ごしていた。たった7坪のスペースだが、初めて誰に遠慮もなく自分の料理スタイルが提供できる場所、調理に関しては自信はあったが、内装を含めてフロンティアースピリット溢れる美意識の空間にしたいとの想いに心は躍っていた。とは言っても有り余る資金がある訳でもなく、さてどうしたものかと思い悩む毎日が続く。そんな時、相棒の高木君から提案が出た。安価な廃屋の木材を譲り受けて、梁や垂木はテーブルに、太い柱は分断して丸イスにというアイデアに感動すら覚えて賛同した。調べてみると、経費はほぼ運搬費だけで資材はタダ同然の価格で扱われていた。そして、床を敷き詰めたのは、JR(当時は国鉄)から買い付けた古材の数十本の枕木、1本、800円の出費だった。1坪の厨房から配善口を支えるのは、木製の電信柱。これには訳があって、もう時効だから許していただきたいが、資材を運ぶ途中、偶然、道路に横たわっていた古い電柱を無断で拝借したもの、後にNTT(当時は電電公社)から軽いお叱りを受けることになった。照明はアンティークなビードロガラスの傘を被った白熱灯、極めつけは天井付近を巡り回る、電動の鉄道模型。全て彼のプロデュースだった。

メニュー構成において、一番難儀したのは、唐辛子。その頃の輸入食料品店にはメキシコ産は皆無で、たまに見つけても米国産の不味いものばかり、かといって我国の青唐辛子では香りも旨味も追いつかない。お手上げ状況の中、悶々と眠れない夜が続いた。気分転換に横浜に買い物に出かけた日のことである。ふと立ち寄ったインド料理店でカレーを注文した時に閃いた。ここなら上物があるはず、意を決して分けてもらえないか、お願いしてみた。突然の申し出に店のスタッフも戸惑いながら、経営者に聞いてみると答えてくれたが、返事はNOだった。それから、都内、横浜のカレーを提供している専門店を軒並み訪ね歩く日々が始まり、殆んどの店舗に断られ、やっとOKが取れたのは日本レストランが経営するカレーハウス「BOLTS」だった。熱意が通じたのか、「少量でも必要な時にいつでも買いに来てください。」と優しい言葉をかけて頂いた。本国の青唐辛子に匹敵する旨味を兼ね備えた食材との出会いは、ラ・カシータのサルサ・メヒカーナやサルサ・ランチェラの基盤となり、その後の安定した献立作りの原動力として全体を支えてくれた。時代は移り変わり、多彩なメキシコ唐辛子が入手し易い状況にはなったが、現在もこの会社とは親交が続いている。

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“三笠宮殿下婚礼の儀”当日と重なった撮影の思い出

ラ・カシータを旧山手通りにOPENした1978年頃の代官山にはファッション界を先導する「BIGI」や究極のサンドイッチの伝道師を誇る「トムズサンド」、古着の革命児の帝王、垂水さんが発信する「ハリウッド・ランチ・マーケット」、日本に本場のイタリア料理を知らしめる起爆剤となった「パパ・アントニオ」、建築界を震撼させた芸術大賞の「ヒルサイドテラス」、それらすべてが店の真横、真向かいに位置していた。偶然の恩恵にしては余りにも恵まれた環境に、その頃の自分はまだ気づいていなかった。メキシコ料理の王道を伝えるべく、頑なに邁進していた私には周囲がまったく見えていなかったのである。舞台、映画、TV俳優、音楽、製作、アートの世界の各著名人が来店しても、誰彼の区別無く、徹底したスタンスで応対していた。結果的にはそれが功を奏する事になるのだが、綿密に作戦があった訳では無い。当時、道路を隔てて向かいの奥に住んでいらした愛川欣也さんも常連客の一人で、毎週のように来訪されていた。1980年の秋の頃だった。愛川さんから「マスター、今度ラジオのパーソナリティーの仲間とトーク番組をここでやりたいんだけど、どう?」と打診された。

「皆、美味しいメキシコ料理をまだ食べた事も無いし、店の宣伝にもなるよね。」と懇願され、引き受けたその番組は、絶大な視聴率を堅持していた、あの朝のワイドショー「小川宏ショー」。しかも生中継。撮影に向けて周到な打ち合わせが始まった。午前の店を借り切っての段取りは、早朝6時からの中継車の到着後、歴代のディスクジョッキー10名が囲めるテーブルセッティング、3台のカメラ位置、2時間の放送枠を支えるメニュー構成、スタジオとの連携等、準備は万端だった。一大アクシデントが起こる。宮内庁発表された報道で、髭の殿下の愛称で知られる三笠宮殿下の婚礼の儀が撮影当日と重なったのである。さあ、局は大慌て。急遽、二元中継に方針決定、厳かに進行する皇室の式典と愛川さん達によるラジオ放送の持つ醍醐味と意義をテーマに盛り上がるフリートークが交互に放映されたのである。後日、ラ・カシータは皇室と関わりがあるという思いもかけない噂が広まった。後年、読売新聞に掲載された愛川さんの執筆されたコラムの文面に「11PMの取材で訪れたメキシコで食したタコスより、ラ・カシータの方が美味しい」と記述して頂いた。現在も親密なお付き合いが続いている。

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メキシコ料理はウツにならない

ラ・カシータのお客様がお食事の後、それぞれに口にする言葉に象徴的なフレーズがある。通常、飲食店の帰り際は「美味しかった、又、来ます。」が常套句のはず。勿論、自慢ではないが、殆どの来客がその状況である。唯、それに加えて常連の方々に留まらず、新規の来店の際にも「何か元気になる!」を幾度となく耳にする。美味しい物を食すれば確かに感動もあれば、身体も喜ぶ。充足した満足感に浸る幸福もあろうかと思う。だが、時の経過に伴い、年齢に応じて好みも変われば、同じ味に飽きたりもするのが本来の解釈であろう。30年以上の顧客達が何度もそう感じるのはいったい何故だろう?料理の中に精力剤等を混入している訳でも無いし、食材の味付けは塩のみで調理する基本は先住民伝来の姿であり、真相はずっと謎のままであった。2003年の初春の頃だった。テラスの席で盛り上がっていた6人グループの一人が話しかけてきた。「全部美味しいですね、都内で一番だと思いますよ。」悪い気はしなかった。何件か食べ歩いた中で誉めてもらえるのはいつも嬉しいものである。ニューヨーク帰りだというその大柄な青年が意外な事を話し始めた。「僕、今秋にメキシコ料理の小説を出版するんですよ、タイトルは「メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか」です。」

彼の正体はドリアン助川の名でバンド活動や執筆、ラジオ、TV、朝日新聞紙面での人生相談等、多方面で活躍している実力者だった。彼の話によると、我が国の深刻な現状である鬱病と自殺の問題を追いかける内にメキシコ料理に行き着いた。3年間のニューヨーク滞在中にそれを軸に書き上げた小説だと、簡単に説明してくれただけでその日は別れた。訳がわからなかったが「メキシコ料理はウツにならない」と聞かされて、楽しい予感がしていた。後日、出版を控えて再度来店した彼は自殺率の現状を話し始め、WHOの統計で世界第2位だと発表されている日本はたぶんウソの報告をしていて、ロシアを抜いて1位であろう。これだけの裕福な国の人々が何故追いつめられて行くのだろう、その点メキシコは所得も低く、アメリカからは差別とひどい待遇を受けながら、最下位の率である。日々の食事では無いのかと仮説を立て、調べる中でナス科のトマトや唐辛子、インゲン豆の成分に気持ちを高揚させつ要素があるらしいと確信したと。話し終えた彼が手にしていた発売間近の本には、44歳、薄毛、とてつもなく冴えない男(料理人)が人類を救う旅に出るストーリーがメキシコを舞台に展開していた。出版後、大反響を呼んだこの本による講演会やTV出演の度に、彼はラ・カシータの料理を常に側に置き、真摯な態度で講釈をしてくれた。

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ラ・カシータ、少女コミックに登場!

「食」に興味を持ち、それが自身の中心核となり始めたのはいったいいつの頃からだろうか?幼い頃は家の周りに食材が溢れていた。夏時分、近くの畑には胡瓜、トマト、茄子等がたわわに実り、勝手気ままにもぎっては口にしていた記憶がある。道端にはとうもろこしや砂糖きび、庭には無花果や枇杷が生り、そんな景色を眺めているのが好きだった。駄菓子屋に行っても一番心を惹かれたのは、黄な粉をまぶした、手作りの型で抜いたゼラチン菓子だった。5〜6才の頃の思い出である。誰しもがそうであるとは限らないが、料理人や評論家にならなくても、「食」への興味を生涯持ち続ける方々が大勢おられるのが、調理の表現者となった自分の励みと考えてきた。美食へのこだわりを自分の仕事の風景として捉えている典型的な例は文筆家の作品に顕著に見られる。池波正太郎氏や壇一雄氏の作品は、一皿、一皿の実態だけでなく、香りや美味しさが如実に文面から伝わってくる。メキシコ料理もいつの日か、こんな風に書いて貰えないかなあと、遥かな夢を持ち続けていた。意外に早くその成就はやって来た。それは旧山手通りにオープンして4年も過ぎた頃だった。椎名誠氏のエッセイの中にラ・カシータが発信する料理の味わいと感動、新たな発見が文章に表現されたのである。追いかけるように女流小説家、中島梓女史の作品のワンシーン、代官山ラ・カシータでの食事の光景が料理と共に登場するのである。感無量だった。

それから時は過ぎて、2002年の暑い夏の頃だった。竹之内淳子と名乗る漫画家の先生が訪ねて来た。依頼は、次回の物語はメキシコが舞台だが、街の風景が想像出来ないので写真を見せて頂きたいとのお話だった。後日、訪墨した時のものや資料本等を参考に現地の地域性や国民性をレクチャーし終え、折角だから食事をしていきますと何品か召し上がっている時の事だった。「こんなにメキシコ料理って美味しいんですか!」驚嘆されるので、食文化の話に移行し、チャンスとばかり今度の作品に料理の登場は無理ですか?と強引ながらお願いをしてみた。翻訳本なのでストーリーを変える訳にはいかないとシナリオ構成の担当者は困っていたが、先生は余りにも気に入ったのか心が揺らいでいた。一週間後、再び来店した彼女達の返答に、思わず「やったあ!」と達成感の気持ちがあふれ出た。何と筋書きを変更して、ヒロインの船上での食事シーンや訪問した家庭での場面にワカモーレやエンチラーダス、タンピコ風ステーキ等が登場するのである。そして、ラスト・・・二人の心を結びつけるキーワードは、料理名の「ワカモーレ」で、ハッピーエンドを迎える結末に見事に修正されていた。感謝感激の出来事は編集長の計らいで3ページ増えて、少女漫画に描かれた私自身が語る番外のメキシコ料理講座まで構成された事である。


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奇跡のチーズ発見秘話

案外、知られていないが、メキシコは、中南米切ってのチーズ大国である。ヨーロッパから受け継いだ技法は、およそ400年の期間にこの国の土壌、風土に育まれ、根付いた個々の種類は、他の国に例を見ない独特の風味、成り立ちを醸し出す特有の製品として各地域に存在している。短期熟成のリコッタチーズのようなケソ・アニェッホ(Queso A?ejo)は手で触れるとボロボロになるくらいのフレッシュなもので、最も一般的にフリホーレスやエンチラーダスのトッピングに使われる。モッツァレラのような味わいを感じさせる、ケシージョ(Quesillo)と呼ばれるオアハカのチーズは強い弾力があり、火を通した鶏肉を裂くように手で裂くことが出来る。そのまま耐熱皿に溶かし、トルティージャに巻いて食す、ケソ・フンディードが有名である。濃厚な旨味をもつケソ・マンチェゴ(Queso Manchego)は味が滑らかで、口当たりは、我国のメルティングチーズにおおよそ近い。柔らかくて淡白な味わいのケソ・パネラ(Queso panera)はワカモーレと共に前菜に、北海道十勝を思い起こさせる持ち味のケソ・チワワ(Queso chihuahua)、煮込み料理などに使用される塩味の強いケソ・フレスコ(Queso fresco)等、メキシコらしさを滲ませた風合いのものがどこの市場にも溢れている。

公園通りに店を構える準備に奔走していた時期、唐辛子と共にチーズも最大の課題であった。1970年代の時代背景は現在のように手軽に入手出来るイタリア食材も皆無で、チーズといえば、石鹸のような日本製が主であった。唯一、アメリカKRAFT社のチェアーチーズが輸入食材品店で売られていたが、米国民好みの癖のある味が強すぎて使う気にならなかった。手段は食材輸入の会社に頼るしかないと、電話帳に掲載されているそれぞれに片っ端から尋ねる一歩から始まった。約100社程あった相手先の殆んどが、予想通り米国中心の営業活動だったが、一割ほどヨーロッパのものを扱っている社がみつかった。メキシコ産は不可能にしても、それらの試食を試みようと、連絡を取り、各営業マンの方々にご足労いただいた。奇跡が起きたのである。何とたった1社が取り扱っていたゴーダチーズが旨味も香りも充分に満足のゆくものだった。それはオランダFRICO社が製造している15kgの途轍もない大きさの製品で、果たして賄いきれるかどうか不安はあったが、即、決断を下し、契約を結んだ。ラ・カシータのチーズ献立の基盤が確立し、誇りと自信を胸に提供出来たスタートから早いもので36年、恵まれたことに相手も企業継続を重ね、現在も取引が続いている。余談ながら当時の担当だった外回りの彼は、今、常務取締役として社の重鎮となっている。

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未来に希望の灯火の花が咲いた瞬間

長らくメキシコ大使の補佐を務めたAnibal上原氏が昨年大使館を去ることになった。東京での就職を斡旋してくれた恩人である。彼との出会いがなければ今の私が現在に至ったかどうか?おそらくもっと過酷な茨の道を歩んだのではなかろうか?と、ふと考えてしまう。運命の遭遇は渡墨前の神戸時代に遡る。米国式メキシコ料理を信じて疑わず、調理していた頃の私は、店が請け負った大阪の老舗デパートでのメキシカンフェアのイベントに果敢に闘志を燃やしていた。料理の種類も然ることながら、竹製の料理長と記された名刺を誇示したくてたまらなかったのである。そんな折、東京から視察に来阪したのが当時、メキシコ大使館商務部参事官の肩書を持つ彼だった。今、思えば勘違いも甚だしい献立と、気障な名刺をひけらかす男、何と滑稽で生意気に彼の眼に映ったことだろう。その時は挨拶を交わしただけで別れるのだが、国の業務に携わる立場を記した名刺を交換して手に入れた私は、愚かにも舞い上がり、財布に入れてしばらくは事あるごとに誰彼となく自慢していた。時は流れ、いつの間にか2年の歳月が過ぎ、名刺の存在も忘れかけていた。その頃の店は繁盛していたが、来店にしたメキシコ人達から辛辣な酷評を浴びた経験から、悶々とした日々が続き、メキシコ行を決意した私は、退職し、本国の実情を知るために、たった1枚の名刺を頼りに一路、東京へ向かった。

大使館の受付嬢はアポイントも取っていない私には当然のごとく、事務的に拒絶の応対で、おまけに「ここは就職の世話などいたしておりません!」とけんもほろろだった。食い下がる自分に業を煮やしたのか「お帰り下さい!」と声を荒げた。その時だった。偶然、通りかかった男の顔に見覚えがあった。上原氏本人だったのである。彼は私のことなど全く覚えていない様子だったが、訳を話すと、「あ〜、あの竹の名刺の人?」と思い出してくれた。取り敢えず話だけでも聞きましょうと側の部屋に通された。当時はガイドブックもない時代で、現地のレストランの数や働ける手段、ビザの発給、渡航の方法等、知りたいことは山ほどあった。話し始めて、気が付けば1時間もたっていた。熱意に根負けしたのか、「君が本当に本国の伝統料理を修行してくれるなら、ここは金銭の助けは出来ないけれど応援は出来る、大使館も正統派の料理店が日本にないので困っている。もし、成就した暁には連絡ください。」とメキシコシティの有名レストラン、総数20軒のリストを作成してくれた。遠い未来に希望の灯火の花が咲いた瞬間だった。とはいってもJALの往復運賃は36万円の高額、大卒の初任給が6万円の時代である。神戸に戻った私は学生の頃アルバイトした店に頼み込み、貯蓄に精を出す毎日が始まった。

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大勢の人の厚意に支えられた修業のための渡墨

昭和の時代に名を馳せた神戸のレストラン「PALL MALL」。今、尚、語り継がれる味の記憶の存在感は当時の名声の程を伺わせる。偶然か必然か、はたまた宿命なのか、学生時代に遭遇したこの店での就労体験が私の人生を決定づけたのである。外国人クラブの異人館で行われるパーティや日々のダイニングの調理を陣頭指揮していた西山シェフの辣腕ぶりは関西在住の富裕層や著名人達に広く知られ、彼らの舌をうならせていた。思い起こせば、西洋料理のソースを作りだす土台のフォン、それを発展させた基盤のエスパニョール、そして、ドミ・ラス。彼の仕事は徹底して際立っていた。さらに肉や魚、野菜類の目利きも厳しく、特に地元ならではの牛フィレやロースに関しては、配達された部位の取り替えを業者に命じるほど食材に精通されていた。その頃の私はその凄さにも気付かず、与えられた仕事をこなすだけだったが、何時間もかかるソース仕込の工程の順ごとに、今の味、こうなった味、そしてこうなる味と丁寧に解説を交えて指導してくれていた。ベシャメルやドレッシング等の配合や組み立て、献立の味覚を左右する食材への熱の加え方、全てに於いての成り立ちがホテルの厨房で見聞きしたものとは違っていた。西山さんが提供する港町神戸に根差した洋食は美味しいだけじゃなく、感動、発見、そして、喜びに溢れた一品に仕上がっていたのである。

将来を危惧して心配してくれた周りの職人達も、本国でのメキシコ料理修業を志した私に興味を覚え、何かと応援する気持ちに変わっていた。店での調理技術も然ることながら、和食や中華、ギリシャ料理等、友人の調理人達に声をかけて、それぞれの料理場を見学できるように計らってくれたのである。当時は海外旅行も儘ならない時代、ましてやメキシコ事情に疎いのは仕方の無い現実で、まるで未開の地へ日本選抜の料理人を送り込むかの如く支援の心情で接してくれたと記憶している。顧客達の反応も温かかった。自分達の身の回りで海外体験の経験を持つ人の話を伝え聞いては、細やかに教えてくれたり(全くメキシコとは関係なかったりするのだが・・・)、あるデパートの売り場課長などは、展示品だからと云って大きな旅行用トランクを無償で与えてくれた。こうして大勢の人々のご厚意に支えられながら時は過ぎ、いよいよ出発の日が近づいた。最後の仕事の夜、閉店後、感謝の気持ちを述べて帰ろうとした時だった。シェフを筆頭に職人が揃い、早番や休みの日であるはずのスタッフも含め、店総動員の送別会が企画されていた。食卓には賄いで自分が大好きだった調理が何品も並び、カンパを募ったのか、全員からの餞別が用意されていた。涙が止まらなかった。その時シェフから頂いた名工の筋引き包丁は今も大事にしている。

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メキシコの蒲鉾

1976年、4月某日、私は築地にある全国漁業連盟本部の応接室にいた。「ゼンカマレン」の正体は全国蒲鉾連合組合。担当者は話を切り出した。「渡辺さんはメキシコ食事情に詳しいと大使館の方からお伺いしました、つきましては彼らが好む魚肉練り製品を考案していただけないでしょうか?」いきなりのお願いに依頼の主旨がよく理解できなかった。彼の説明によると、鈴木善幸農林大臣がメキシコ視察に訪れた際、西海岸マサトランからプエルトパジャルタ辺りで水揚げされる鯛や鱸(すずき)、蛸、海老等の豊富な漁獲量は我国に有益な輸入資源と捉えてきた。しかし、同時に網にかかるスケトウダラやサメなどは殆どが廃棄されている。何とも勿体無い現況、逆に現地で有効に利用できる生産工場を設立すれば、メキシコの食品流通に一石を投じることができ、本国政府からも感謝される。こう言う次第ですと・・・。時の大臣からの命を受けた現場は俄然張り切っていた。外交事情に絡む事態に驚きはしたが、調理の表現に飢えていたその頃の自分には打って付けの役目かと思い、僭越ながらやらせて頂くこととなった。閃きや着想は皆無に等しかったが、面白く思えたことが救いだった。

では早速と、近くにある水産練り製品生産所に案内され、製造工程を拝見すると、スケトウダラやサメに留まらず、グチやエソ、鯛、ハモ等の高級食材が小麦粉や卵白、山芋と絡み合い、蒲鉾や竹輪、はんぺんなどがいかにも美味しそうに出来上がる様が展開されていた。昆布で巻いてみたり、色を付ける、油で揚げたりと様々な工夫が凝らされている日本伝統の食文化を如何にメキシコに馴染ませるのか、容易ではないと感じていた。数週間、時間を頂いて、本国の民衆に根付いている唐辛子類、アボカドやチーズ、トマトやとうもろこしの野菜類、海老や蛸、鶏ブイヨンの旨味等、約20種くらいのアイデアをまとめ、レポートを提出してみた。しばらく返事が来ず、採用されなかったのかと気を揉む日々が続いた。余りにも放置された状況に思い切って電話をかけてみた。意外な返事が返ってきた。大臣は北方領土の交渉の為、外務省に任命されました。従ってこの事業は中止となりましたと、にべもない対応だった。連盟に対する義憤は感じたが、夢中で取り組んだ時間の充実感で補うしかないと忘れることにした。それから30年程経ったある日、縁があって蒲鉾販売大手、鈴廣の社長と話す機会があり、過去の思い出として当時の出来事を聞いて頂いた時のこと、驚愕する事実を耳にする。「渡辺さん、それらの製品、メキシコで作ってますよ。」 何か昔の友に巡り会ったようで妙に懐かしかった。

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ラ・カシータ創成期の志を伝える教え子たち

1976年の開店以来、教え子の数も200人を超える現状である。この国において私自身が表明したい「メキシコ料理の伝え方」に賛同してくれた若者達は、ラ・カシータの創成期から志を持ち、強い探究心を掲げて幾人もが共にその時代を担ってくれた。調理専門学校等から料理人としての経験と捉えて就職してくる場合が勿論多いのだが、意外な事に全く料理界とは無縁の所からの出会いもあった。それは代官山にOPENして間もない頃のTV出演「すばらしい味の世界」のスタジオ収録を終えた一週間後、担当ADの彼がお礼と放映日の報告に来店した時の事。役目を済ませた彼は「僕をこの店で働かせてください!」と唐突に話し出したのである。訳を聞くと、日本でまだ知られていない料理を確実に表現している実態を、奢ることなく、英雄を気取らず、そして、シェフとあんなに楽しそうに調理をしているスタッフ達を見ていたら感動しました。是非、僕もその仲間に加えてくださいと哀願してきた。嬉しかった。調理経験の有無など、どちらでも良かった。遠い未来へ向かって大きな大きな夢を膨らませている時期、開拓精神溢れる人材は本当に心強かった。後に彼はメキシコへ旅立ち、半年の滞在で食文化を学習し、大阪、千里に店を構えることとなる。

その後、何人もが独立して全国に拠点を築いてゆく展開が生まれてくるのだが、大変厳しい事にTEX−MEXが主流の我国では時代や認識がそれを許さず、お客様に愛想を尽かされるケースが多々有り、止む無く閉店に追い込まれる羽目になっていった。そんな中で、もう20年以上群馬、高崎で営業を続けている男がいる。このご時世、経営も儘ならないと伝え聞き、これは現在のスタッフで励まさなければと計画を立て、行ってみることにした。突然の来店に彼はびっくり仰天だったが、後輩達の顔を見て喜び、辣腕ぶりを発揮して十数人のオーダーを一人でこなしてくれた。本店の味とは多少異なっていたが、地域に密着した好みに仕立て上げて継続している状況は流石だなと思い、感謝の言葉を口にしていた。当時のメンバーの一人が近所にいたらしく、挨拶に現れた。料理の仕事は辞めたらしく、「何かあったら連絡下さい。」ともらった名刺には「葬儀屋」の文字が記されていた。和やかな笑いの絶えない数時間だった。地方で啓蒙する難しさを克服するのは並大抵ではないと実感しているが、勇気と決意を持って挑戦し続ける教え子が何人も居ることで、新たなる未来への展望を感じているこの頃である。

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